sketch 34

今日はあまりにも春で私の心も落ち着かなくてなんか嫌な感じです。
昨日? 今日になって突然風の匂いが変わりました。
季節はいつも気づかないうちに忍び寄り私の大事なものをすべてさらって遠くへ行ってしまう
私はその後ろ姿を眺めている。柔かそうなライラック色の布が、埃まみれの地面にふわふわ舞って落ちる
私の心はざわめきざわめき、正気を保っているのが難しくなるくらいに

気づけば毎日グリーンスムージーを飲んでいます。。。うまいよ。

きみは天使だった

『神様明日の朝幸せになってますように、なってないなら死んでますようにと願って眠りについて、次の朝目が覚めたときどっちも叶っていなかったときの絶望の話をしようか?
でも多分それは絶望と呼ぶには温すぎて、誰かに話をすれば笑われたり怒られたりするのかもしれない。痛みや感情は相対値じゃなくて絶対値であることをみんな結構よく忘れるからだ。私にとっては絶望する! に限りなく近しい朝は誰かにとっては別にいつもと変わらない、よくある毎日のなかのただの朝だ。
私は毎晩毎晩神様にお祈りをしてから眠りにつく。明日の朝幸せになっていますように。なってないなら死んでますように。それか世界が滅んでますように。そしてそれは毎日叶わない。ちゃんと毎日同じ朝が来て、電車が動いて私は出勤する。
そもそも幸せがなんなのかわからないんだから神様だって叶えようがないのだ。』

「うたのパパを殺したい」
 俺はそれを聞いていよいよ緑の頭はやべえなと確信する。緑はもともとちょっと変なところがあって友達と言ったら俺とうたしかいないようなもんだけど、俺も友達やめたくなるレベルでやばい。たぶんこれ聞いたらうたも友達やめたくなる。
 まあ緑には友達がいないのではなく、緑が友達と思ってないだけだ。クラスの女子と仲良くしゃべっている姿ももちろん見かける。そもそも俺だって同じクラスの緑という女子と一日中行動を共にしてたらそれはすごい変だし、だいたい友達がいないのは俺ということになる。でも緑が友達だと心から思っているのは、たぶん俺とうたぐらいのもんだろうというのははた目から見ててもなんとなくわかるのだ。「緑、俺とお前は友達だよな?」
 そう聞くと緑はちょっとムッとして「お前って呼ぶのやめてくんない?」と言った。「友達だよ。ヤスは唯一の友達」
 俺はちょっとほっとして答える。
「なんでうたのパパを殺すとか言うの」
「だってうた新しいパパにヤられちゃうから」
 何てこと言うんだこいつは。俺は目の前が真っ暗になったような気がした。気がしたっていうだけで、長野市の夏は相変わらず湿度が高くて空が青くて暑いし眩しい。
 長野市立第三中学校の体育館わきのチャリ置き場で、これから帰る俺と緑は話をしている。
「なんでそういう話になるんだよ。うたのお母さんが再婚するってだけで、なんでその新しい親父にうたがヤられんの。話飛躍しすぎだろ」
「いや間違いないね私にはわかんだよ。ヤスにはわかんないだろうけど。こないだそういう本読んだし」
 本当にいよいよ緑の頭はおかしい。
「いや、それは小説の話だろ。現実じゃないだろ。何読んだんか知らないけどうたの親父がうたに手出すって決まったわけじゃないだろ」
「でもうた、かわいいじゃん。私がうたの新しいパパだったら絶対うたのことそういう目で見るわ」
 こいつは結婚しない方がいいし、性犯罪で捕まるからむしろ家から出さない方がいいし近所の小学生男子とか襲う前に俺が矯正しなければ……と思って俺は肩を落とす。非常にめんどくさい。
 ところで俺たちが「うた」と呼ぶその子は隣の二組の女の子で、花園うたと言う。うたは本当にマジで俺と緑しか友達がいない。なぜならうたは保健室登校をしていて、学校にきてもずっと保健室にいてクラスの授業になんて出ないからだ。
 うたは俺たちが小学三年生のときに、隣の学区の小学校に転校してきた。それがもう本当に薄幸の美少女って感じではかなげで細くて折れそうで白くてかわいい。初めて会ったときから俺のアイドルだ。うたは光っていた。冗談とかじゃなく本当に俺の目にはうたは光って見えた。
 でもいくら性春真っ盛りの中学三年生でも、俺はうたでは抜けない。グラドルの水着の巨乳の谷間とか、同じクラスの美人の最上の運動服の半袖から覗く脇とか、ネットに違法で上がってるAVしかもちょっとうたに雰囲気の似た子とかではガンガン抜いても、絶対うたでは抜けない。なぜならうたはそういう欲望みたいなものと無縁の世界で生きていかなければいけないからだ。それは俺がただ勝手にそう思っているだけなんだけど、でもそう強く思わせるほどに、うたは本当に儚いのだ。儚いというものが具体的にどんなものか俺には実はよくわかってないんだけど、とにかくうたを一言で現せと言われれば、儚いというほかない。
花園という苗字は京都のもので、うたは京都で生まれたが、最初は父方の祖父母の家でほぼ監禁されるみたいに育てられていた。うたは認められた子ではなく、うっかりミスって産まれてきてしまったのだ、と祖父母に言い聞かせられるみたいにして育ってきた。そう、実のところ年若かったうたのお母さんは、そのときすでに結婚していたが子どもができなかった超金持ちのうたのお父さんと不倫して、その末にうたが産まれてきた。うたとお母さんは引き離され、うたは世間から隠されるみたいにして育ってきたから、うたは当然京都でいじめられた。そのあとうたのお母さんが頑張って頑張ってお金を稼いでうたを半ばさらうみたいにして取り返して長野県の田舎に逃げるように移り住んできた。
 でもこのド田舎はそういう噂はすぐに広まる。俺はそれをよく知っている。だから転校してきた小学校でもうたはいじめられて、三年耐えて卒業後、俺と緑と出会ったこの第三中学校でももちろんシカトくらったり陰口立てられたりひどいときには上履きのなかに給食で出たドレッシング全部入れられたりして、いまじゃすっかり保健室登校なのだ。
うたのお母さんは駅前の大通りをちょっと左に入ったところにある、飲み屋が集まる「要町通り」の小さなスナックで働いていて頑張ってうたを育てている。何度か会ったけど、うたのお母さんは本当に太陽のような人で、いつも笑ってて、いつもあんまり笑わないうたとは対照的だ。バイタリティに溢れている。でもうたのお母さんはうたのことが大好きだった。たまに全然喋らないでぼーっと虚空を見つめているような不思議ちゃんのうたのことが大好きで、そういうのちゃんと伝わってくるから俺は好きだ。
 不倫は良くない。不幸になる人が必ずいるから。
 でもそれでうたは生まれてきた。それは俺はよかったなと心の底から思う。
 矛盾してるけど仕方ない。
 話は戻るが、スナックで働いているお母さんはどんなご縁か東京で学校の先生やってるっていう人と再婚することになって、うたは今度また東京に転校しそうなのだ。緑はたぶん寂しいからそんなバカなこと突然言い出したのだろう。
「てかお前はよく考えた方がいいよ。まだヤられるかどうかなんてわかんないのにうたの親父殺してどうすんの」
「ヤられてからじゃ遅い」
「いやだからその前提いらねーよ。まだ俺たちうたの親父さんがどんな人かすら知らないじゃん。だいたいどうやって殺す? 死体とかどうするん?」
 と、ここまで言うと緑は黙り込む。そして俺を恨めしそうな目で見て、ヤスは悲しくないん? うたのこと好きじゃないん?」
 と言う。何言ってんだかなこいつはなと思いながら「俺だって悲しいよ、うたと離れたくないよ」そういうのが精いっぱいだった。

「こうした研究のあと、生まれついて魂の数は十四個に分かれていることがわかりました。記憶がある子もいるかもしれないけれど、魂検知マーカー検査を、人は生まれたら必ずやります。それは義務だからです」
「先生、魂は一箇所にとどまるものなんですか」
俺が挙手もせずに聞いても、先生は何も言わなかった。クラスの三分の一が寝ているのだ。緑も例外じゃない。机に突っ伏して小さい寝息立てている。
「そうですね、魂は常に流動して体の中を駆け巡っています。ですからマーカーで色を付けて、ちゃんと十四個あるのか確認します。十四個に満たないものや、十五個あるなんて言う人も中にはいます。その際の対応については諸説ありますが、基本的には魂の切除などすると、人格形成にも関わってくると言われていますので、そのままにしておくことが多いです。」
俺が魂検知マーカー検査をした時の結果は、家のアルバムに挟んである。虹色のそれぞれの色を濃い・薄いの二色ずつにして出てくる検査結果の紙に、俺の魂は綺麗にプリントされていた。十四色の魂。あなたの魂はふつうです。
いまこの瞬間にも俺の身体の中をものすごいスピードでこの十四色が駆け巡っている。
マグダラちゃんは、ラジオで「私は生まれたときマーカー検査を受けるのを拒否した。その義務を果たさなかったから、生活はいつも苦しかった。ただ、他人に自分の魂を触られるということがとても嫌だった。私じゃなくて、私の両親が。だから生活はいつも結構ギリギリだった。
 あとあと調べてみると私には魂が十三個しかなくて、それで何か納得した。自分が生きていくのに何かが足りないという気持ち。すとんと納得いったの、魂が足りなかった」
と言っていた。
「ちょうどメールが来ましたね。日本、大阪府にお住いのラジオネーム『月子』さん。月っていいよね、私は好きだよ。『いつも楽しくラジオ聴いてます』。ありがとう。『マグダラちゃんは何色の魂がなかったんですか?』」
 「説明するのが難しいんだけど、私の場合は色すらなかった。十三個の魂の全てが青い色をしていた。宝石みたいな、海みたいなグラデーションだった。」

俺の魂はちゃんと標準的に十四個あって、多分緑もそうだろう。うたの魂は、実は十五個ある。

memo 続かないかも

愛の空洞

愛は底の見えない暗い穴。見つめ続けるのとても辛い、しんどい、逃げたい、愛なんてないと言った方が本当に楽
楽だね
埋めることのできない空虚さが愛なのだとしたら、結局それを隙間なく埋めることのできるものもまた愛しかない
お前愛してるんだろ?愛してるって言ったよなと自問すると、即で愛してる!と自答する。
じゃあその愛を証明しろと、百万回愛してると言ったところでそれはただの言葉だ
「愛してるなんて言うな/そんな言葉 ただの言葉なのさ/そんなに強くないぜ」


JUDE / SILVET


誓うとか言うの簡単でそれを破るのはもっと簡単で
信じるということは簡単で裏切るのはもっと簡単で
愛すると言うことは簡単で
言うだけなら 言うだけならタダ

その身をもって一生かけて戦いつづけて証明しろという
もしかしたら一生かかっても証明できないかもしれないけど挑戦しない手はない、どうしても
受けなきゃよかった傷なんてない、今のところ
旅をしている

innocent

「innocent」…無罪、無垢、純真、汚れのない

イノセントさを人はだんだん忘れていくらしい。それが大人になるってことらしい。そう聞くとなんかそれを失うことがダメだというように聞こえるけど、イノセントな魂が人生のいったい何の役に立つ?
自分の死生観や世界観を培っていく過程で、人はいろんなことを忘れ、自分が子どもだった時のことを、気持ちを、だんだん忘れて世の中に適応し、苦しいなとおもいながらもなんとか世界の一部として頑張って生きていく、そういうことしたかったよ。
自分のことばかり考えている。

純粋さ、無垢さ、そういったものは世界にとても傷つけられる。世界のすべてを自分が変えられるわけではないと気づいたとき、世界は自分にやさしくないのだと気づいたとき、私(たち)はなぜか非常に孤独を感じる。純粋さとは、高潔さとは、無垢さとは? 汚されないことはつまり適応できないということだ。
そしてそういう気持ちって大変な閉塞感につながる。それは翻れば自分は悪くないという気持ちに繋がりやすい。
この世界は私が選んだのではないし、この≪存在≫もまた私が選んだのではない。そこで受ける苦しいとか悲しいとか大変とかしんどいとか、自分を脅かす傷は自分が選んだものではない、から。
そしてその閉塞感を打ち破るほどの何かを自分は持っていないから。
そういう苦しみから解放されるためには、自らもその世界の一部だと受け入れるか、その世界から永遠におさらばするしかないんだろう。
もしかしたらすごく極端なこと言っているのかもしれない。

なんか一種のそういう閉塞感から抜け出すことができないという気持ちを抱えている人は多い気がする。

もうちょっと誰かと深くかかわりあえたら少しは楽になるんだと思うけど、誰かと深くフィットしてかかわりあうっていうのが私はあんまり得意じゃない。なぜならそういうことに傷つけられるから、自分の思ったことを言うと人は傷つくし、わからないというから。
世界に理解を求めるくせに、私は世界を理解する気がないというのはとても卑怯なことのような気がする。

抵抗することって私の人格の大部分を占めていて、それはなにか特定のものというより≪世界≫そのものへの抵抗。
私は≪世界≫を受け入れてたまるかという抵抗。思春期のような。
いくら≪世界≫が理不尽に私を傷つけても、私はそれに屈しないという、あきらめの悪さ。どうあっても私は≪世界≫を変えてみせるという気持ち。
でもまったくの他人と深くわかりあえた瞬間に私は≪世界≫のことを忘れるし、許したり、愛せたりもする。
ただそのわかりあえる他人ってあんまりそうそう出会えるものではないし、結構あっさり別れてしまったりその後何年も連絡をとらなかったりする。そのとき、私はその人のことを本当に必要とし、その人も私を本当に必要とする。何事にも代えがたい素晴らしい経験を私は何度もしているが、それってあっさり失われたり途切れたりする。
そして私はその事実にとても傷ついたり、平気で忘れたりする。
でも傷跡はちゃんと残っているから私はときどきちゃんと思い出して繰り返し傷ついてどんどん閉じていく感じがするなあ。

生まれたとき、子どもの頃、無垢な純真な汚れない魂があったとする。
でも無垢であることはもうれっきとして一つの傷だ。
魂には最初から傷がついている。

もうちょっと≪世界≫と仲良くなりて~~と思う。でもそういうものって他人を通じてしかもらえない。言葉や振る舞いによってしか繋がれない。もうちょっとなにか、理解できる「形」として残してくれりゃいいのにそううまくはいかない。
なので社会性は失いたくないな、働こう、無垢な魂がご飯用意してくれるわけじゃないし、家賃も水光熱費も払ってくれるわけじゃないのよ。
≪存在≫に意味が与えられるなんてことはないと知っているのに私はそこにあらん限りの抵抗をしている。本当の愛、本当の信頼、本当のなにか。嘘やごまかしやなんとなくじゃなくて、本当にゆるぎなく真であるなにか。
きっと見つかると信じて生きていきましょう、と私の大学の恩師は昔言った。
でもそれって躍起になって探すと見つからなくて、ふと何の気なしに目をやったときそこに見つかる。一瞬だけ。

一見正反対の、矛盾した事柄はいつも隣にいる。生と死だったり、嘘と本当だったり、愛と憎しみだったり、悲しみと喜びだったり。それこそ無垢なものとそうでないものとか。そういうものが。
割とそういう事実に直面すると混乱するので整理して反対に置いておきたいんだけど、天秤みたいにつり合いが取れる状態に。
そういうものを整理しておけるようになりたいと望む一方、整理できない自分を失いたくないとも思う。
もしかしたらその正反対の一方を通ってからじゃないと、もう一方にはたどり着けないんじゃないかなと思う。

そんな感じで苦しんでいる。

「明日はこっちも降るらしいよ」

 「明日はこっちも降るらしいよ」と彼女は言った。私はふーんとつまらなさそうに返事をした、居候として受け入れてみたはいいものの、私はまだ彼女の名前のすら知らず、また彼女のほうでも私の名前なんて知らない。それでいいんだろうなと思う。
 無職でどうしようもないから、一日だけでいいから風呂を貸してくれと言われてもう三日たった。ここ東京都足立区は空っ風が強く寒かったが、私はずっとここに住んでいるから別にどうとも思わない。彼女の方が異様に寒がっていた。
 「ふるさとには雪が降るの?」
 と私が問いかけると彼女はあーとから返事をしたままテレビから視線を動かさなかった。テレビでは全国の降雪確率が順番に流れている。
 天気予報は外れたのか当たっているのか、その日のお昼の内に雪が降り始めた。私は街灯に照らされて白く光り、さらさらと音を出して積もる雪を飽きもせずに眺めていたかったけど、彼女はそうではないらしかった。
「眩しい。眩しくて眠れないから閉めてよ」
 私は軽くため息をついてカーテンをぴたりと閉じた。「こっちは雪が少ないからはしゃいじゃう気持ちわからないかな」と彼女に言うと、彼女はもう眠り込んでいるようで小さな寝息だけが大して広くない(二人で暮らすなんて考えられないような)部屋に響いた。私は眠ることができず、時折カーテンを少しだけ空けては雪の積もって行く様を見ていた。電線に積もった雪が、重みに耐えられず地面に落ちた。明け方まで私はそうしていた。雪は降ってきているのではなく、地上のあらゆるものを空へ吸い込んでいるようにも見えた。このままだと空が落ちてくるかもしれない、と思ったところでようやく雪を眺めるのをやめて振り返ると彼女は起きていた。午前四時だった。
 出身地も名前も知らない彼女はただ「わけあって無職で」としか言わなかった。ただ雪に対する反応で、彼女が少なくとも雪の降る街で生まれたとなんとなく想像がついた。
 「雪国の生まれなの」と私が問いかけると、彼女は別段抵抗もなくあっさりと「そう」と答えた。
 「私は雪がたくさん降る場所のことを知らない。どんなところ?」
 言われて彼女は、まだ暗い朝の四時半のベッドで、故郷の話をはじめた。

 小さいころから見ていたから特別な感情なんて普段ない。寒いのは嫌で都会に出てきて、まあ種類の違う寒さにちょっとまいったけど雪の降る中外に出ているときほど痺れるような寒さはない。ちょうど五センチくらいの針が、耐えず自分の身体を刺し続けている感じ。それが私の生まれたところの寒さ。ただ家の中があったかい。外の空気を入れないようにできているからね。
 私が一番好きだったのは、裸の林檎の枝に雪が積もっている場面。…… 場面。情景? ごつごつと薄茶けてねじ曲がった林檎の枝に、白く雪がかかっている。これ以上ないほどの美しい。地面もみんな白く染まってて、タンポポだのそういうかわいい花は全部雪の下に埋まっている。
 本当に何もないんだ。そこだけ世界の終りのようだ。生きているものは、雪と私だけなんじゃないかと思うくらい、静かで、音は全部雪に吸われて消えて行ってしまう。とても死の世界が近くにある。灰色の雲から新しく雪がどんどん降ってきて、私の肩や頭にも積もって、耳が冷たくて呼吸するたびに肺が鳴る。本当になにもないところだった。喜びとか、命とかそういうものがないようだった。私は好きだった。

 新雪の上に鼻血を垂らしてしまったことがあったよ。たしか雪合戦の球が丁度鼻にぶつかって、その球がまたこれでもかというほどに固められていたから私は思いっきり鼻面を雪の球で打たれて、あっと思った瞬間には遅かった。鼻の中を生暖かい液体が伝ってくる嫌な感じがして、ぽたぽたとあっという間に三個、白い雪の上に血が滲んでいった。
血があまりにも赤くて、雪があまりにも白くて、そして自分から流れて出た血は湯気が立っていたのが気持ち悪いと思った。血は美しい形で雪の上に跡を残した。自分の手足は冷え切っているのに、身体の中だけはこんなに熱いんだ。そのとき、私は自分も周りの人間も急に恐ろしくなったことを覚えている。
 恐ろしく、不気味で、でも美しかった。本当に。なにか汚してはいけないものを汚してしまった罪悪感みたいなもの、初めてそこで知ったように思う。
 そして、採血するたびに自分の血の色のことを思った。雪の上に降ったような鮮烈な赤さではなく、身体の奥深くにはこんな赤黒い血が流れているんだと思って、そのたびなんだか嫌な気持ちだった。私の身体の血を全部抜いて、あのきれいな赤い色で満たせていたらよかったのになと。

 越えられない山があったんだ。峰が白く染まり始めると里にも雪が降る。そういう目印の山があって。子どもの頃の私はその山は越えてはいけないもので、恐れとか憧れとかそんな感傷をさしはさむ余地もなく、ただの境界線だった。
 でも大人になったら、その山を簡単に越してきてしまった(正確に言うと、新幹線でね)。ここで彼女は少し笑った。自嘲的な、鬱屈した、ひねくれたような笑い方だった。
 ああ、越えてしまえるなんて思ってすらいなかったのにな、と彼女は言った。

 雪国に戻る気はないの、と私が聞くと、彼女は今のところはないよと答えた。彼女は荷造りをしていた。荷造りをしていたと言ってもパジャマも歯ブラシもシャンプーも私の家のやつだから、彼女の持ち物はあの日新宿で出会ったときの恰好そのままで、小さな鞄一つ持つだけの簡単なものだった。
 死ぬときはどうするの、最後私は彼女に聞いた。
 「死ぬときは。――死ぬときは雪国に帰るよ。私はいろんなことがあって無職で貯金もないし、家族はいるけど金の無心をするような親不孝者だし、明日の保証もなんにもない人間なわけ。だけどせめて死ぬときくらいはあの雪の上で力尽きていたい。焼かれて灰になってしまうよりいいような気がする。清潔で。山にはカラスとか動物もたくさんいるけど、そいつらが食べればまたあの白い雪の上に赤いまだらの花が咲いて、湯気が立って、それも凍って、春になる前にすべて消えていてほしいというのが私の願い」
 「これからどこに行くの?」と私が聞くと、彼女は黙ってわからないというように首を振った。
 「私はいつか、その裸の林檎の木に積もる雪を見に行こうかな」と言うと、彼女は鞄からペンとメモ帳を取り出して、自分の実家への行き方を丁寧に書いてくれた。思ったよりも整った字だった。
 準備が終わって彼女が私の家のドアノブを回すとき、「そういえばなんて呼べばよかった?」と聞いた。彼女は振り返って少し考えてから「ぼたん」と言った。
 「じゃあ、あなたのことなんて呼べばいい」と逆に聞かれたので、私は私の本名を名乗った。「みゆき」
 ぼたんは少し考えたあと、自嘲的でも何でもなく、ただ純粋に小さく笑った。
 「いつか来なよ。――きっと美しいから、みゆき」

 それじゃありがとう、となんの感慨も名残惜しさも残さずぼたんはドアの向こうに消えていった。ふと窓の外を見るとまだ雪は降り続いていて、私は慌てて傘を持ってぼたんの跡を追おうと外を見たが、そこにはもうぼたんの姿はなかった。そういえば彼女の脚は長かった。走るのに長けていそうな。

 一人になった部屋で考える。ぼたんのこれからのこととか私のこれからのこととか考えても仕方ないことを。さらさらと降り続ける雪をぼたんも見ているはずで、明日の朝になれば積もった雪は水交じりの泥になって、車がそれを跳ね上げる。テレビは同じ言葉を繰り返していた。「東京都でも雪は続くようです。明日の降雪確率は50%。傘が必須の天気となります。」明日になればどうせ消えてしまうのになぜ、今雪は降らなければいけないのかなと私は考えていた。答えはいつまでもわからなかった。

sketch 32

高いビルの上についているあの、赤い色のランプが好きだ。
夜の中で明滅する赤い光。

33歳の知り合いのお父様が亡くなられたそうな。
時間は待ってはくれない。生きている意味を感じなければ、どうやって生きていっていいのかわからない
傍にいたかった。
でもそれはできなかった。