光について Ⅰ

Ⅱがある予定だったんですけど、ないです。
最近書きたいもののイメージが膨らんで来たので、ようやっとなにかものを書けるようになれそう。
あまりに強い光がいやで、でも暗くなるとそれはそれで不便だし不安になる。
下記、かいたのは多分2016/3だったかとおもう


『光について』

佳代が死んでしまったと知ったのはのどかな春の、日曜日の午後だった。

世界の多くの日曜の午後がそうであるように、昼を過ぎた街中はつかの間のまどろみの中にいて、どこからか意味の解らない子どもの声が聴こえて、誰もいない道路を時折車がスピードを上げて走り抜け、そのたび道路に面した僕の安アパートはカタカタ揺れた。
佳代と一緒にいた時間はとても短くはあったけれど、佳代は僕の昔の恋人だった。いくら短くはあっても、恋人だった事実はそのまま事実だ。その昔の恋人が死んでしまったという知らせは、いろんな人を巡り巡って、チェーンメールか何かのように僕のもとに届いた。僕にはその知らせを送るべき人間は思い浮かばなかったので、おそらくその知らせは最後に僕のもとに届いたと言えるだろう。
佳代、やっぱり死んでしまったのか。僕は一番はじめにそう思った。なぜなら佳代はいつでも死にたがっていた。だけどどうやら意外なことに、佳代の死因は事故であるらしかった。信号無視のトラックに派手に跳ね飛ばされて、佳代は死んだ。

僕と佳代は、短い何か月かを恋人として過ごしただけの関係だった。正直僕は佳代と交わしたいくつかの会話と、佳代がよく泣く女の子だったということ、死んじまいたいといつも口癖のように言っていたこと、そんなようなことしか覚えていなかった。特段美人でもなく、どちらかといえば暗く、あまり笑わない、声も思い出せない。ただ、佳代の目だけはしっかり思い出すことができた。全体の印象はぼんやりとしているのに、その目だけは、いまでも思い出そうとすればはっきりと思い出せた。綺麗な、茶色い目をしていた。

正直なところ僕は佳代を好きだと思ったことは一度もなかった。だから恋も長くは続かなかった。何度か僕は佳代のことを好きになろうと努力もしたけれど、結局僕は一度も佳代を好きだと思うことはできなかった。それでもなぜ一度でも佳代の恋人になろうと思ったかといえばそれは佳代が僕を本当に好きだったからだった。それはなんというか、説明してもわかってもらえないかもしれないけれど確かに客観的事実としてそこにあった。自分の思い上がりや傲慢さでは決してなく、事実として佳代は本当に僕のことが好きだった。一緒にいるとき、彼女はいつでも僕に好きだと言った。だれでも一度は人生のなかで口にするであろうその言葉は、佳代の口から出るときいつでもかなりの切実さを帯びていた。そこには真実だと思わせるような何かがあった。夜のうちもどこかで揺れ続ける波のように、見えなくてもたしかにそこには何かがあるのだと思わせる響きを持っていた。
そして僕は悲しいことに、なぜ佳代がそんなに僕のことを好きなのか全く理解できなかった。それどころか、僕は佳代の考えていることのほとんどが理解できなかった。なぜ佳代がそんなに苦しんでいるのか、死んじまいたいと繰り返すのか、僕と一緒にいるときにほとんど何も喋らないでいるのか、なにもわからなかった。佳代が何かを伝えようとしてもそれは僕にははっきりとした形として伝わってはこなかった。佳代はそのかわり僕にたくさん触れた。僕の形を確かめるかのように、五本の指先で僕の輪郭をなぞって、僕の胸の上に手を当てていた。僕が佳代について覚えていることといえば、そんな不可解な行動ばかりだった。
好きというのはとても特別な感情だ。それは誰にでも抱けるようなものではないと、そのくらいは僕にもわかる。でもなぜその対象が僕なのか、僕はいつもわからなかった。僕は自分を不幸だと思ったことはない、いろんな不満はあれどむしろ人より恵まれているとすら思う。だけど自分が他人より優れているとか特別だとも思わない、本当に普通だ。普通の家庭に生まれ、普通に大学を出て、それなりに大切な友人も何人かいる。いろんなことに喜んで、いろんなことに傷ついた。他人と会うのも一人でいるのも好きだ。好きな酒があって、好きなスポーツがあって、好きな季節がある。恋もしてきたし、長く生きる分いろんなものを得ていろんなものを失ったり捨ててしまったり諦めたりもした。でもそれは世界中のほとんど誰もが同じようにしてきたことだ。要するに、ふつうなのだ。そういう僕が、なぜ佳代にそこまでの愛情を向けられるのか理解できなかった。
でも結局、自分が他人を好きになるときのことを思い出せば、佳代の気持ちもなんとなくわかる。結局のところそこに意味なんてほとんどなくて、ただ青が好きとか、夏の夕暮れが好きとか、そういうものと同じだ。なにも理由なんてない、好きになるときは簡単に人を好きになってしまう。
でもそれに気がついたのは結局もっと後になってからのことで、僕はそのとき佳代から向けられるどうしようもなく強い感情がわからなくてただ苦しかった。だから佳代と別れた。
そんなことをぼんやりと、どこか他人事のように思い出していたせいか、その晩僕は佳代の夢を見た。

————
「アタシ、ほんとうにSちゃんのこと好きだよ」
佳代はそう言って笑った。夢のなかで佳代はどこかに腰かけていて、でも佳代がなにに腰かけているのか僕にはわからなかった。僕と佳代はたぶん公園みたいなところにいたんだけれど、そこが果たして公園なのかも僕にはよくわからなかったし、考えれば考えるほどに僕は自分がどこにいるのかわからなかった。佳代は白いTシャツを着ていて、袖の部分が透けてその細い二の腕のラインがはっきりとわかった。僕と佳代はなんとなく真っ白な空間にいた。多分僕が目を凝らせばもっといろんなことがよく分かったんだろうけど、ピントを合わせようと努力すればするほど周りの風景は白く溶けていった。そこで僕はふと思った。僕たちは今ものすごい光の中にいるんだ。
佳代のお腹から下あたりはもう光にまみれて見えなくなっていた。だから僕は彼女がどこに座っているのか見えないのだ。僕と佳代のまわりにはいろんな植物の気配がした。見えないけど、僕たちの頭上には多くの葉が繁っている気配がした。佳代と僕の足元からは、確かに草の匂いがしていた。
「ここ、どこ?」
僕の言葉に佳代は答えずただ笑っていた。不思議なことに起きているときにはまったく思い出せなかった佳代の顔は、ここにきて僕の目の前にはっきりとあった。それはまるで現実のもののように細部までしっかりとあった。まるで今まで盲目だった人間の目が突然開いたように、僕はリアルに佳代と向き合っていた。
「アタシ、ほんとうに、Sちゃんのことが好き」
再び佳代は繰り返した。一言一言を区切って噛みしめるようにそう言った。
「Sちゃんはほんとうにキレイ、アタシ、Sちゃんの顔も身体もとても好きだった、Sちゃんの身体の中にはSちゃんの魂が詰まっていて、アタシの身体がそれに触れるということは、アタシの魂がSちゃんの魂に触れるということだったの」
おいおい、と僕は思った。昔から突拍子もないことを言う女だったけれど、突然脈絡もなくこんなことを言われるとついにここにきておかしくなっちゃったのか? と思う。
「佳代が何言ってるのかぜんぜんわからねーよ」
僕は苦笑しながらそう言った。それはかつての僕がときに冗談として、ときに大真面目に繰り返した言葉だった。
佳代はゆるやかに首を振りながら言った。「わからなくていい、たぶんSちゃんはどんなに頑張ってもアタシのこと理解できない」
佳代の頭に合わせて、髪が揺れた。
佳代は髪を伸ばしていた。僕が長い髪を好きだと言ったから。その髪が肩のあたりを過ぎたころ、僕は佳代と別れた。佳代はよくうつむいていて、そうしてしまうと横髪が彼女の顔をほとんど隠して、いつでもどんな顔をしているのかわからなかった。佳代がそうやって泣いているとき、僕はたまに彼女が泣いているのか笑っているのかわからなくなった。そして今、彼女が少しうつむいて、その髪が揺れていると、やっぱり僕は彼女が泣いているのか笑っているのかよくわからなかった。
「アタシ思うんだけど、結局アタシこうやって車に跳ね飛ばされて死ぬためにいままで一生懸命生きてきたんだわ」
「佳代、泣いてるのか」
「泣いてない」
佳代は顔を上げた。するとやっぱり佳代は泣いていた。いくつかの透明な涙が佳代の頬を伝ってぽたぽたと落ちていく。そういえば僕は、佳代が泣くとなぜ泣いているのかいつもわからなくて混乱ばかりしていた。ここにきて今まで思い出さなかった細かいいくつものことが、僕のなかに思い出として一つ一つよみがえってくるのがわかった。僕はぼんやりとしたままそれを受け入れている。佳代はたぶん、僕に永遠のさよならを言いに来たんだな、と思っていた。僕にはそれがわかっていた。頭上で葉が揺れている。
「Sちゃんに振られてからというもの、アタシ何度も死んじまおうと思ったけどそれでもここまで頑張って生きてきたの。Sちゃんがどっかで生きていると思ったからアタシも頑張って生きてきた、でもここまでだね」
佳代の現実味のない詩のような言葉が僕に昔の気持ちを思い出させた。それは混乱と、彼女に同じような気持ちを返せない罪悪感と苦しさと、そこから逃れようとする必死さが混ざり合ってできていた。
「佳代はなんで俺のことそんなに好きなの」
「それはアタシにもよくわかんないよ、ぜんぜん理由なんてないよ、SちゃんがSちゃんとしてそこに存在してるってだけでアタシはもう好きだったの」
「なにがそんなに好きなの」
「Sちゃんのまともなところ」
まともなところ?
「たしかに俺はあなたよりもずいぶんまともだったと思うけど」
佳代は泣きながら器用に笑って見せた。まるで佳代との思い出を凝縮して一枚のフィルムとして見せられているようだった。ここにきて僕は佳代がちゃんと笑うこともできたということをやっと思い出す。大切だったのにどこかに落としてきてしまったものを一つずつ拾い上げていくような気持ちがしていた。
「あのね」
佳代がためらいがちに口を開いた。
「あのね、わかるように言葉を選んでいるような時間はないの。アタシもう行かなきゃいけないし、Sちゃんは帰らなきゃいけないし、アタシ、ただ一言だけ幸せになってねって言おうと思って来たの、ほんとにただそれだけ」
「俺はそんな、誰かに一生懸命好かれるようないい人生送ってきてないし、本当に普通の人間なのに、佳代はすぐそうやって俺を特別みたいなことを言う」
「その、ちゃんとしてるところが好きだったの、ちゃんと生きて、ちゃんと他人を思って、ちゃんとご飯作って食べて、ちゃんと掃除して洗濯もして、そしてちゃんと人を傷つけてそのぶん自分も傷つくところが好きだったの」
「やっぱり佳代が何言ってるのか一つもわからねーよ」
佳代はたくさんの光の中で笑った。それと同時に佳代が落とした涙の粒が、足元の光の中に吸い込まれて消えていった。
頭の上で葉がたくさん揺れている。
「アタシとSちゃんの世界は最後まで重なることがなかったね」
佳代のふたつの茶色の瞳が僕を見つめていた。
「アタシSちゃんがどこでどんな人生を送ってきたのか全然一つも知らなかった。でもSちゃん、きっと今までいろんなものをたくさん失ってきたのね。それをちゃんと後悔してるのね。アタシのこと傷つけたと思ってたくさん苦しんだのね、でももう別に苦しまなくていいの、アタシもう遠い所に行かなきゃいけないし、だからSちゃんはもう幸せになることだけを考えて生きていかなきゃいけないのよ」
木の葉と葉がこすれあうざわざわという音がはっきりと聞こえた。それに合わせて目の前がさらに白っぽくなる。「まぶしい?」と佳代が聞くので、僕はうんうんと首を振った。
「佳代、佳代に俺の気持ちがわかるのか?」
佳代は「まったく」と答えてまた首を横に振った。そのたびに佳代の髪の毛はふわふわと揺れた。そういえば僕はその髪をふと撫でたことがあった。いつかの朝、佳代が僕の部屋の窓から外をぼんやりと眺めていて、なんとなく僕はその髪を一筋すくって撫でた。佳代は少しだけ笑った。今まで思い出しもしなかったそういう小さなことを、たくさん思い出し始めていた。
「Sちゃんがアタシのこと理解できないみたいに、アタシもSちゃんの気持ちなんてぜんぜんわかんないよ。でも想像することはできる。そのたびにアタシのなかでSちゃんが育ってくのよ。それはたぶん、本物のSちゃんからは遠い所にあるのかもしれないけど。でも想像することって大切じゃない? アタシ、Sちゃんがいなくなってから随分たくさん、Sちゃんのこと考えたよ。Sちゃんがアタシのこと結局振るしかできなかった気持ちとか、そういうもの」
佳代はそこで言葉を止めて息を吸った。「あのね、ダメなの。どうしてもこう、アタシの言葉ってどうしても抽象的で観念的になる。実体のないものみたいになる。きっとこういう性格なのね」
でもSちゃんはそれを理解しようと頑張ってくれたよね、と佳代は言った。
そう、確かに僕は佳代を理解しようと努力はしていた。
「Sちゃんはアタシにひどいことしたかもってずっと傷ついてるんじゃないかって心配だったの。実際どうだったのかはわかんないけど。でもアタシ悲しかったけどぜんぜん辛くなんてなかったよ。だってSちゃんはいろんなものをアタシに与えてくれたから。アタシのこと好きじゃなくても、好きじゃないなりに大切にしようとしてくれてたから」
佳代は語り続ける。僕はなんだかぼんやりしてしまう。佳代の言っていることがうまく意味として理解できない。でもなにかが僕のなかに、土がゆっくりと水を吸い込むように染みこんでくるような気がした。
「形のあるものと、ないものだったら、いつでも形のないものが残る。うまく言葉にできないものが残り続ける。アタシSちゃんの顔も声もだんだん忘れてすっかり思い出せなくなったけど、Sちゃんが与えてくれたものがアタシの中には確かに残り続けていた」
頭の上で葉がたくさん揺れている。
「Sちゃん、ここどこかわかる?」
俺の部屋、と僕は答えた。話を続ける佳代の姿を見て、なんとなく僕はそんな気がしていた。見えないけれど佳代が腰かけているのは僕のベッドで、ここは僕の部屋なんじゃないかという気が少しずつしていた。あ、そうかもしれない、と佳代は答えた。
「ここはSちゃんのことを考えてるときに私のなかにちょっとずつ育っていった場所だよ。ねえSちゃん、じゃあ光って何でできてるか知ってる?」
わからないよ、と僕は答えた。
佳代の茶色い瞳と目があった。目のなかに涙がたくさん浮んでいて、それは少しずつ歪みながら光をまとって僕たちの足元に消えていった。僕はまぶしくて目を開けていられなかった。
「Sちゃん、アタシSちゃんのこと好きになってほんとうによかった。抱きしめあえてよかった。一緒にいられてよかった。例えそれがどんなに短い間だけでも」
もう行かなきゃ、と佳代は言う。
その頃にはもう光が溢れすぎていて、僕にはほとんど何も見えなくなっていた。眩しすぎて目が痛い。僕は目を開けていられなくなって、閉じた瞼の間から涙がぼろぼろと流れて落ちた。佳代の姿ももうおぼろげなシルエットとしてしか認識できない。
佳代、佳代は幸せだったのか?
「幸せだったよ」と佳代は言った。「こんな人生の終わり方を迎えるとしても、毎日毎日死んでしまいたいと思っていたとしても、アタシ幸せだったの。たくさんの人がたくさんのものをアタシに与えてくれていたの。Sちゃんの中には何も残せなかったかもしれない。でもアタシの中には残った。一緒にいたその一瞬のなかにたくさんの永遠を見ていた」
「Sちゃん、Sちゃんの笑った顔アタシ一番好きだったから、これからも出来るだけ笑って幸せになって」
それが僕の最後に聞いた佳代の声だった。

————
目が覚めて、枕が濡れていることに気がついて、僕は自分が夢を見ながら泣いていたことを理解した。そうして佳代がもうこの世のどこにもいないことを思った。
はたしてそれは僕の中の記憶が見せた夢なのか、はたまた本当に最後に佳代が僕に会いにきたのか、それはわからなかった。僕は夢の中でいろんなものを取り戻すかのようにすこしずつ思い出していったけれど、それが僕の記憶の見せたものだとしたら、忘れてしまったように思えて実は僕の中には残っていたということになる。夢の中で佳代は、僕に何も残せなかったかもしれないと言った。でも多分、僕のなかにも残っている。
それにしても佳代の、あの独りよがりな愛情はどうにかならなかったのかな、と思って僕は少し笑った。自分が好きだと伝えるだけ伝えて押し付けて、こっちの気持ちは結局どうでもいいのだ。佳代が大事なのは、自分がどれだけ相手を愛しているかということだけであって僕の気持ちなんて関係なかった。いつでも。
でもその強い愛情は確かに僕のなかに何かを残していた。
ベッドから起き上がって一番最初に目に入るのは、部屋の窓だった。あそこに確かに佳代はいた。そして外をぼんやりと眺めていた。僕はその髪に触れた。それは過去確かにそこに存在していた。
夢の中ではあんなにリアルに目の前にあった佳代の顔と姿を、僕はやっぱりうまく思い出せなくなっていた。あまりにも強い光の向こうにそれは消えてしまって、もう思い出せない。でも二つの茶色い瞳だけは僕のなかにしっかり焼き付いていた。僕を見つめる佳代の目の中に、形にならない何かがあった。
佳代は幸せだったのだろうか? 多分本当に幸せだったのだろう。

そうして僕はなんとなく光について考えた。来続ける朝と夜のことを考えた。佳代がいなくなった世界でも相変わらずありつづける光のことを、形がなくても残り続けるもののことを。僕は窓のそばにあった佳代の後姿を思い出しながら、それをずっと考えていた。


GRAPEVINE - 光について

なにもかもすべてうけとめられるなら何をしていられた?