救済と喪失 1

割と今日頭がまともだったんでいろんなことを考えていました。
煙草を買いに夜中コンビニに行ったら道の途中で職質された冬。人生で初めてでした(しなくてもいい経験)
おまわりさん「はーい。家出ですか?」
私「ち、ちがいます…」
おまわりさん「免許証見せて」
私「ハイ!」
おまわりさん「何してたの?」
私「煙草買いに行ったんですけど」
おまわりさん「たしかに財布とタバコしか持ってないね…」
私「ハイ!」
おまわりさん「家近いの?帰れる?めっちゃ車道に出てあぶないよ」
私「ハイ!」
おまわりさん「気をつけて帰るんだよー」
私「ハイ!」

はた目から見てもヤバかったんでしょうね、睡眠導入剤入れてから煙草ないことに気付いて外出た私が悪いなこれは

さてこのようなことをのっけから書いてるんですけど、こういう、メンタルヘルスで笑いをとることについて考えました。

共有できないこと

俗にいうメンヘラ芸について、私もやります。上記のようなことが主な例です。「こんなことやっちまった!ワハハ」みんな笑ってくれよと私は言う。
だけどこれは本当は笑いたくはないです。私は結構な勢いで睡眠薬の中毒者なんですが、それを15人いるくらいのTwitterでネタみたいに書きます。笑い話として。今日は60錠飲んじゃったよ~という話をします。笑ってくれよと思っています。面白いと思ってくれたらいいなとそのときは思います。
でもそれは違うのでした。私はそうでもしないと自分のした行為にとてつもない恐怖を感じてまともでいられないので、「そんなことは大したことじゃない」と誰かに言われたいのでした。たしかに言われたい。ウケる!と言われたらほっとします。
でも心の奥底ではそうではなく、私は必死に懺悔し、誰かに許しを求めています。
私はこんなことをした。したくなかった。誰か許してくださいと
誰か許してください。誰か助けてください。誰か救ってください。
「正解はだれも救ってくれない」です!わかるかな?
これは「誰も私のメンヘラを理解してくれない」ではないです。理解してくれる人めっちゃいます。でもこの痛みや傷や空虚さは私のものであり、誰かのものではないので、似ているというだけで誰かと同じではないです。正確には誰も私の痛みを全く同じように感じることはできない、ということです。

ここで最初のメンヘラ芸のことに戻りますが、「こういう人間です」と痛みをさらけ出すこと、「私もそうなんですよ」と同じく痛みを晒されること、これは悪いことではないと思います。
でもそこで生まれるのが、「この人は私と同じだし、私だけじゃないんだ」という気持ちです。
「メンヘラなんてみんななる、お前だけが辛い思いをしているわけではない」これもよく聞く言葉です。
なあでも、誰かが代わりにこの痛みを受けてくれるのか?
お前だけが辛い思いをしてるわけじゃない、じゃあお前の痛みは誰のものなんだ?私の痛みは誰のものなんだ?
あなたのつらさや痛みや、傷つけられたことや傷つけたことは、すべてあなたのものだ。
私の痛みも私だけのものだ。
それは共有することができない。

共有できないことの希望的側面と絶望感

なあ、じゃあこれはどこにしまえばいい?どこにオチをもってくればいい?ストーカーみたいな電話しまくってガチの拒否をされたよ。職質されたよ。薬飲みまくったよ。こんなこと本当はしたくなかった。もっと自然に愛したり愛されたり、労りあったり支え合ったり、そういうことしたかったよ。でもどうしてもそれができない。ひどい言葉を投げつけて相手が傷つくまでやって、やって、やって、やった先には同じ傷を私も負う。私のような(あくまで「ような」)人種は、とにかく人を傷つけることに関しては悪魔的な才能があります。
この空虚感を、焦燥感を、死にたいと思う気持ちを、他の誰も理解はしてくれない。1mmのずれもなく同じ感情を抱くというのは無理な話です。できない。神であってもできない。私は私であって、あなたではない。あなたの存在の代わりにはなれない。それと一緒で、だれも私の人生を代わりに生きてくれるなんてことはない。
救いを待ち続けていました。焦がれていました。いつか誰かが私を助けてくれるなんてことを考えていました。バカでした。私は寄り添うことはできるけど、人を救えるわけではないのです。逆もまたしかり、人は私にやさしく寄り添うが、お互いの空虚さを埋めることはできないのです。我々はお互い胸に空いた穴を見ることができないのです。
ここまできて結構絶望感だぜ~と思ったけどこれは希望の言葉でもあるからよく覚えていてほしい。
「君が辛いと思っていること、それはすべて君のものだ」ということ。誰にも渡すことなどできない。それこそがあなたの存在を存在たらしめているのです。みんな、そりゃそれぞれ辛いさ。人生生きてんだもん。想像もできないようなひどい目にあったりもする。
でも君はどこまでいっても「君」のものです。他の誰かと比較する必要なんてない。あなたの受けた傷は、あなただけのもので、他の誰のものでもない。
だから他人と分かり合うことなんて絶対にできない。あなたは他人のために自分のメンヘラをコンテンツとして提供するけど、それはあなたを救わない。家に帰って「私はなぜこんなメンヘラになってしまったのだろう」と過去の呪いをもう一度思い出し、自分のためだけに泣くことが、正しいことだと思っています。

世界から消えてなくなるということ

私は結構いろんな人に「死ぬのだけはやめとけ」と言います。それはなぜかというとほんとに死んでほしくないからです。
私とあなたが理解し合えないということは、つまり世界はそれだけの人数でできていて、大好きな人もいれば死んでくれ!!と唾棄すべき存在もあります。
死にたいよ~~と言われると、言われた相手は傷つきます。愛していればいるほど傷つくでしょう。
でも現実の死はそう甘くない。
もう失ったら何をしてもなにを差し出しても戻ってこない。これが現実です。
死んだらそれで終わりです。呪いがかかり、もう二度と笑ったりする権利なんかないんじゃないか?と一生後悔し続ける。
「あなたがいる世界」はその時点でおしまいになり、世界は決して連続してはいない。「あなたがいない世界」になる。
「あなたがいる世界」はもう二度と戻ってこない。
死ぬかもしれないことをイメージするだけで、だいぶ精神に来るのですが、本当に死んでしまうということは失う予感なんかよりもっとシンプルで暴力的にきます。この世のどこを探してももう君はいない。
考えるだけで辛いことです。イメージの死、想像の死はそれだけでもかなりつらい。でも現実の死というのはそれとは全く別のレイヤーで語られます。
それは予感なんていうものをぶっ飛ばしていきなり暴力的にぶつかってきます。
ああもっと優しくすればよかった、あんなこと言わなきゃよかった、なんて言ったところで何も変わったりなんてしない。戻って来られない場所、それが彼岸です。
死にてえ〜〜、私よく言う。でも死ぬよりマシだと思う。責任という言葉においては、それが一番理解できる「責任」というもの。選択の果てにわたしたちの生があり、私は自分で選んで息してる。
でもふと思うけど、それを他人に強要するのってどんなもんなんだろう?

私はあなたに死んでほしくない。無様に這いずり回ってたとえ私が見捨ててしまう側になったとしても、
生きていてほしい。生き抜いてほしい。戦ってほしい。生まれたことを選べなかった自分たちは、産んだやつの責任にしたい、ところだけど
生まれてしまったからには自分が生きなきゃいけない。人生ハードモード。
生まれたくても生まれられなかった人もいる。それに対して何をするの?とかそういうモラルの話ではないです。
生まれられなかった人、生きられなかった人の分まで生きてもその人たちの代わりにはならないし、
今リアルに感じている私たちの生の痛みは癒されたりはしない、という話。