Camellia

  1

朋が首を切ったとき、翠はほかの男のことを考えていた。
朋は頸動脈をカミソリで深く切り、身体の奥深い場所にある血はどれだけ赤黒いのか、翠に教えてくれた。
朋は翠が好きだったから、翠が他の男のことを考えているのも知っていた。だから頸動脈を切ってしまった。翠はほかの男を真直ぐに見つめ続けながら、朋と付き合っていたのはたしかだった。最低だった。でも朋をその男の代わりにしたことは一度もなかった。

翠は自分の頸動脈をさぐりあてて指でその形を確かめてみた。
そこには確かにどくどくと血液が力強く流れており、ここに刃を突き立てた朋はどれだけの恐ろしさと絶望感を持っていたのだろうか、そう翠は考えた。
だけど緑がほかの男を一途に追いかけていたのは確かだ。それでも恋人になろうと言ったのもたしかだ。忘れる努力をしたのもたしかなことだった。翠は罪だと思ったが、そのために自分が死のうと思わなかった。どうしても思えなかった。
生き続けることで贖うなんてことも考えたりしなかったし、死ぬことで何かがなかったことになるとも思わなかった。
その代わり、翠は呪いにかかってしまった。眠らなければいけない呪いだった。

彼女はとにかく部屋でよく眠っていた。起きている時間よりも眠っている時間の方が長いのではないか?と思うくらい、眠り続けた。眠らなければ正気を保つことができなかったのだ。
眠り姫など美しい形容詞はとっくの昔に、医療費のレシートと一緒に燃えるゴミに出していた。王子様もやってはこない、孤独な眠りだけをゆるやかに続けていた。
翠はもうすっかり、重度の睡眠薬中毒者だったのだ。
睡眠薬を手に入れるなら三つ四つ隣の内科にも心療内科にも行った。とにかくあらゆる手段をもって睡眠導入剤を手に入れた。医師の中にはもちろん、多く出してくれない人も、処方自体を断られることもあった。だけど翠にはもうそれしかのこっていなかったので、次の病院へ向かった。
その行為が自分を疲弊させていることはわかる。もう飲みたくない、と心の中でいくら叫んでも、現実、目の前であの暗くて妙に赤い血が流れた事実を変えることはできなかった。夢も見ない安寧な眠りが翠の唯一心休まる瞬間だった。
月曜日、150錠の薬の殻がゴミ箱に放り投げられているのを見て、翠の心臓はいつだって爆発しそうになる。
なんということをしてしまったのかと、自責の念に駆られる。
これじゃまるで、ゆるやかな自殺じゃないか、と。

  2

家に帰ると、翠が玄関のドアの前で倒れていた。どのくらい倒れていたのか知らない。時刻は午後6時ちょっと前。
ご近所さんの誰にも見られていなくれよかった、と思った。
とりあえず立たせようと持ち上げた腕は氷のように冷たかった。そのころもう翠の意識は混濁していて、目の焦点も会っていなかった。引っ張る形で家にあげたものの、家の中にある机の角とか洗濯ものとかに足をとられてすぐ転んだ。
その転び方が尋常じゃなく、まったく受け身を取らないままそのまま前に倒れる。
「こういうの、もういい加減にしてほしい」
そう翠に伝えてみたものの、曖昧な返事しか返ってこなかったので、諦めた。風呂に入れようと思って服を脱がすと抵抗はされず、裸の上半身が蛍光灯の光を受けてキラキラしていた。お世辞にも大きいとは言えない乳房の産毛が光る。あばら浮きまくっていよいよやばいんじゃないかと思うけど、俺は翠になにもしないと決めていた。同調するのは簡単だし、慰めてやるのも簡単だった。でも世の中のつらいことを全部背負って立っているみたいに見える、翠の態度が気に入らなかった。
風呂に入れてパジャマに着替えさせると、翠はポーチからまた薬を出して飲む。ぷちん、ぷちん、ぷちんと取り外された薬は翠の胃の中でゆっくりと溶けて蝕んで壊していく。
何も言わずにこのままベッドで寝てしまうだろう。何錠かの薬を一気に嚥下して、翠はようやく俺の顔を見た。
「怒ってる」
「怒ってるよ」
「ごめんなさい」

ただそれだけの会話の後、翠は「助けてほしい」とつぶやいて、眠りに落ちた。
助け方なんてわからなかった。何をしていいのかわからなかった。寂しい人間が二人、出会ってももうなにもすることなんてない。救ったり救われたりっていうのはもう翠の問題で俺のものじゃない。
助けられるのは俺じゃあない。 翠は俺を好きだというが、翠が俺を楽しませようとしてくれたことなんて一度もない。翠が俺のためにしてくれたことなんてなにもない。
それでも、人のベッドを占領して眠る翠の寝顔を見れば、苦しくなって涙が出るのも確かだ。
遠ざける術ならいくらでも持っている。傷つける言葉も簡単に吐ける。翠のその死をも厭わない戦いの傷跡が、どうしても痛くて、痛くて、俺のものじゃないのに痛くてたまらない。こうやってあっても、俺たちには話すべき言葉なんてものはない。共有できる痛みもない。むしろ翠はもっと傷ついてさらに眠りを必要とするだけなのに、翠はそれでも側で眠りたいと言う。そばにいると不安じゃなくなるという。胸の中を抉られるような気持ちで俺はしばらく泣いた。

  3

夢の中で私は彼の首から血が噴き出すところを見た。
実際には見ていない、これは夢だから。スパッと、あるいはザクっと頸動脈の一本が切断され、そこからは間欠泉のように赤黒い血がほとばしる、はずだった。
でも血の代わりに、山茶花の赤い花びらがあふれてきたのだ。
私はそれをとても美しいと思ったと同時に、誰かに許してほしくて、許してほしくて、すがりついて泣いて許しを請いたいという自分に気づいた。
もう一生贖うことはできない。私の命をもってしても。何を差し出しても。
私は泣いてしまうかもしれない、と思った。こんな風に泣く権利なんてないとずっと思っていた。裏切りを重ね続けたのは私だったから。泣きそうだ、という気持ちは吐きそうだ、という気持ちに変わり、思わず口に手を当てると胃の中のものがすべて逆流してくる感覚に襲われた。
だけどそこから溢れてきたのは吐瀉物ではなく、山茶花の赤い花だった。我慢しようとしてもボロボロと溢れてくる。手から零れ落ちて、いくつかの花びらが地面に落ちた。
カンカンカンと線路の警報機が鳴った。遮断機が降りてくる。もう走ったって朋のところには間に合わない。
私は相変わらず山茶花を吐き続け、朋も相変わらず首から山茶花を零していた。
朋はじっと私のことを見ていた。頸動脈から美しく山茶花の花びらを撒き散らしながら、ただ、ただ私をじっと見ていた。
そうしてそこでやっと涙が出た。
もう間に合わなかった。

目が覚めると朝で、私は私のベッドできちんとパジャマに着替えて横になっていた。
ゆっくりと身を起こして見ると、身体からあの赤い花びらが滑り落ちた。枕元は、山茶花で埋まっていた。
だれがどうしてこうなったのか、私は覚えていなかった。
私はしばらく泣いたが、なんのための涙なのかはよくわからなかった。

朋は私を好きだった。私は彼を好きだった。彼は私を好きにはならず、朋は頸動脈を切って、私は呪いにかかった。もう何もかも閉じて永遠に眠り続けたいのに、永遠に眠り続けることはできないという呪いにかかった。
意識があるのが辛いから、心臓が爆発して死んでしまいそうだから、また薬を飲んで眠った。
枕元の山茶花の花びらはそのままにしておいた。なんだか自分の血で満たされているような気がしたのだ。それは海の中にいる気持ちに似ていた。暖かくて柔らかくて、安心する。夢の残骸を引きずって現実に帰ってきてしまった。私は彼の部屋にいたはずだった。
だから私はまたこの夢を夢の中に戻しに行かなければいけないんだけど、このまま、山茶花を吐き続けるのも悪くない選択のような気がした。
よく眠れるような気がしたから。