光について Ⅱ

結局ぼくたちが光について言えることなんていくつあるのだろう。
「君はぼくの光だ。」なんていう、ただ恥ずかしいだけでもはや古代のものとなった定型文を、最初に考えついた人間にノーベル文学賞のひとつでもくれてやりたい気持ちになる。そうしてそんな言葉を簡単に使うやつらを全員裁いてやりたい。もうこの言葉は余りに使い古されすぎた。言おうと思えばいくらでも、誰にだって言える。

光について考えることは、愛について考えるのに似ている。

光はいつもそこにある。ただある。それが何なのかぼくたちは一つも考えない。朝になれば自然と世界には光があふれ、夜はまぶしいライトの下でいつまでも眠らない。愛もそうだ。自然といつでもそこにある。でも実体はない。かたちもない。それをつかまえることはできない。ぼくたちがそれをつかまえようとすれば、それはいつでも指の間をすり抜けていく。でも確かにここにはある。なくなっちまえと思ってもたしかにここにはある。夜のうちにも太陽がどこかで照っているように、星が燃えているように。

ぼくは本当に君の夢を見た。
たくさんの光の中で君が笑っている夢を見た。
その夢を見たあとで、ぼくはずいぶん長い間たくさん泣いた。なぜならそれは確かに純粋に夢で、現実ではなかった。ぼくは現実で君がそんな風に笑っているのをみたことはなかったし、現実で君をそんな風に笑わせてあげることはできなかった。

光について考えることは、君について考えるのに似ている。

報われない愛をきっかけに地球が全部爆発して消えてしまうとしても、固い愛の結び目をほどくためにぼくはここにいた。
どんなに厳しい夜が来ようとも、ぼくがじっと留まっていても、閉ざしたカーテンの向こうにはやがて新しい朝が来てそこにはまた新しい光があふれ、人々はそれぞれどこかに向かう。
ぼくはそれにとても救われるし、とても傷つけられる。
どんなに固く閉ざした悲しみのなかにも、少しの隙間があれば光は浸食して、やがてそれをきれいさっぱり癒してしまう。
ぼくはそれにとても救われるし、とても傷つけられる。
ぼくは光から逃げることができない。実体もない、かたちもない、つかまえることができない、だからぼくはどこまで行っても光からのがれることはできない。どんなに悲しいことがあっても、君がいなくなってしまっても、たくさんのものを失ってそれが二度ともどってこないとしても、ぼくは光だけは失うことができない。

光とはいったいなんなんだろう?
結局のところぼくにはわからない。ぼくが光について言えることはそれだけだ。