「明日はこっちも降るらしいよ」

 「明日はこっちも降るらしいよ」と彼女は言った。私はふーんとつまらなさそうに返事をした、居候として受け入れてみたはいいものの、私はまだ彼女の名前のすら知らず、また彼女のほうでも私の名前なんて知らない。それでいいんだろうなと思う。
 無職でどうしようもないから、一日だけでいいから風呂を貸してくれと言われてもう三日たった。ここ東京都足立区は空っ風が強く寒かったが、私はずっとここに住んでいるから別にどうとも思わない。彼女の方が異様に寒がっていた。
 「ふるさとには雪が降るの?」
 と私が問いかけると彼女はあーとから返事をしたままテレビから視線を動かさなかった。テレビでは全国の降雪確率が順番に流れている。
 天気予報は外れたのか当たっているのか、その日のお昼の内に雪が降り始めた。私は街灯に照らされて白く光り、さらさらと音を出して積もる雪を飽きもせずに眺めていたかったけど、彼女はそうではないらしかった。
「眩しい。眩しくて眠れないから閉めてよ」
 私は軽くため息をついてカーテンをぴたりと閉じた。「こっちは雪が少ないからはしゃいじゃう気持ちわからないかな」と彼女に言うと、彼女はもう眠り込んでいるようで小さな寝息だけが大して広くない(二人で暮らすなんて考えられないような)部屋に響いた。私は眠ることができず、時折カーテンを少しだけ空けては雪の積もって行く様を見ていた。電線に積もった雪が、重みに耐えられず地面に落ちた。明け方まで私はそうしていた。雪は降ってきているのではなく、地上のあらゆるものを空へ吸い込んでいるようにも見えた。このままだと空が落ちてくるかもしれない、と思ったところでようやく雪を眺めるのをやめて振り返ると彼女は起きていた。午前四時だった。
 出身地も名前も知らない彼女はただ「わけあって無職で」としか言わなかった。ただ雪に対する反応で、彼女が少なくとも雪の降る街で生まれたとなんとなく想像がついた。
 「雪国の生まれなの」と私が問いかけると、彼女は別段抵抗もなくあっさりと「そう」と答えた。
 「私は雪がたくさん降る場所のことを知らない。どんなところ?」
 言われて彼女は、まだ暗い朝の四時半のベッドで、故郷の話をはじめた。

 小さいころから見ていたから特別な感情なんて普段ない。寒いのは嫌で都会に出てきて、まあ種類の違う寒さにちょっとまいったけど雪の降る中外に出ているときほど痺れるような寒さはない。ちょうど五センチくらいの針が、耐えず自分の身体を刺し続けている感じ。それが私の生まれたところの寒さ。ただ家の中があったかい。外の空気を入れないようにできているからね。
 私が一番好きだったのは、裸の林檎の枝に雪が積もっている場面。…… 場面。情景? ごつごつと薄茶けてねじ曲がった林檎の枝に、白く雪がかかっている。これ以上ないほどの美しい。地面もみんな白く染まってて、タンポポだのそういうかわいい花は全部雪の下に埋まっている。
 本当に何もないんだ。そこだけ世界の終りのようだ。生きているものは、雪と私だけなんじゃないかと思うくらい、静かで、音は全部雪に吸われて消えて行ってしまう。とても死の世界が近くにある。灰色の雲から新しく雪がどんどん降ってきて、私の肩や頭にも積もって、耳が冷たくて呼吸するたびに肺が鳴る。本当になにもないところだった。喜びとか、命とかそういうものがないようだった。私は好きだった。

 新雪の上に鼻血を垂らしてしまったことがあったよ。たしか雪合戦の球が丁度鼻にぶつかって、その球がまたこれでもかというほどに固められていたから私は思いっきり鼻面を雪の球で打たれて、あっと思った瞬間には遅かった。鼻の中を生暖かい液体が伝ってくる嫌な感じがして、ぽたぽたとあっという間に三個、白い雪の上に血が滲んでいった。
血があまりにも赤くて、雪があまりにも白くて、そして自分から流れて出た血は湯気が立っていたのが気持ち悪いと思った。血は美しい形で雪の上に跡を残した。自分の手足は冷え切っているのに、身体の中だけはこんなに熱いんだ。そのとき、私は自分も周りの人間も急に恐ろしくなったことを覚えている。
 恐ろしく、不気味で、でも美しかった。本当に。なにか汚してはいけないものを汚してしまった罪悪感みたいなもの、初めてそこで知ったように思う。
 そして、採血するたびに自分の血の色のことを思った。雪の上に降ったような鮮烈な赤さではなく、身体の奥深くにはこんな赤黒い血が流れているんだと思って、そのたびなんだか嫌な気持ちだった。私の身体の血を全部抜いて、あのきれいな赤い色で満たせていたらよかったのになと。

 越えられない山があったんだ。峰が白く染まり始めると里にも雪が降る。そういう目印の山があって。子どもの頃の私はその山は越えてはいけないもので、恐れとか憧れとかそんな感傷をさしはさむ余地もなく、ただの境界線だった。
 でも大人になったら、その山を簡単に越してきてしまった(正確に言うと、新幹線でね)。ここで彼女は少し笑った。自嘲的な、鬱屈した、ひねくれたような笑い方だった。
 ああ、越えてしまえるなんて思ってすらいなかったのにな、と彼女は言った。

 雪国に戻る気はないの、と私が聞くと、彼女は今のところはないよと答えた。彼女は荷造りをしていた。荷造りをしていたと言ってもパジャマも歯ブラシもシャンプーも私の家のやつだから、彼女の持ち物はあの日新宿で出会ったときの恰好そのままで、小さな鞄一つ持つだけの簡単なものだった。
 死ぬときはどうするの、最後私は彼女に聞いた。
 「死ぬときは。――死ぬときは雪国に帰るよ。私はいろんなことがあって無職で貯金もないし、家族はいるけど金の無心をするような親不孝者だし、明日の保証もなんにもない人間なわけ。だけどせめて死ぬときくらいはあの雪の上で力尽きていたい。焼かれて灰になってしまうよりいいような気がする。清潔で。山にはカラスとか動物もたくさんいるけど、そいつらが食べればまたあの白い雪の上に赤いまだらの花が咲いて、湯気が立って、それも凍って、春になる前にすべて消えていてほしいというのが私の願い」
 「これからどこに行くの?」と私が聞くと、彼女は黙ってわからないというように首を振った。
 「私はいつか、その裸の林檎の木に積もる雪を見に行こうかな」と言うと、彼女は鞄からペンとメモ帳を取り出して、自分の実家への行き方を丁寧に書いてくれた。思ったよりも整った字だった。
 準備が終わって彼女が私の家のドアノブを回すとき、「そういえばなんて呼べばよかった?」と聞いた。彼女は振り返って少し考えてから「ぼたん」と言った。
 「じゃあ、あなたのことなんて呼べばいい」と逆に聞かれたので、私は私の本名を名乗った。「みゆき」
 ぼたんは少し考えたあと、自嘲的でも何でもなく、ただ純粋に小さく笑った。
 「いつか来なよ。――きっと美しいから、みゆき」

 それじゃありがとう、となんの感慨も名残惜しさも残さずぼたんはドアの向こうに消えていった。ふと窓の外を見るとまだ雪は降り続いていて、私は慌てて傘を持ってぼたんの跡を追おうと外を見たが、そこにはもうぼたんの姿はなかった。そういえば彼女の脚は長かった。走るのに長けていそうな。

 一人になった部屋で考える。ぼたんのこれからのこととか私のこれからのこととか考えても仕方ないことを。さらさらと降り続ける雪をぼたんも見ているはずで、明日の朝になれば積もった雪は水交じりの泥になって、車がそれを跳ね上げる。テレビは同じ言葉を繰り返していた。「東京都でも雪は続くようです。明日の降雪確率は50%。傘が必須の天気となります。」明日になればどうせ消えてしまうのになぜ、今雪は降らなければいけないのかなと私は考えていた。答えはいつまでもわからなかった。