HOLE 三部作

2016年の文学フリマで出した「HOLE」という本、穴についての短編三本だったのですが、割と気に入っている話もあるのでここに載せておきます。
身体に空いた「穴」というモチーフをたびたび私は使います。反復します。


1 HOLE

電車を何時間も乗りついで、遠い所に住む友人に会いに行った。
彼女の名前は、まど佳といった。彼女は煙草をたくさん吸って、お酒をたくさん飲む子だった。私は煙草も吸わないし、お酒も多くは飲めない。だけど彼女の耳は真っ白でつるりとしているのに対して、私の耳にはたくさんピアスの穴が開いていた。
その日、私は彼女の前で新たに二つ、耳に穴をあけた。全然痛くないよ、と慣れた手つきで耳を冷やし、消毒をし、穴をあける私に、彼女は顔をしかめて「いやあ」と言いながらタオルケットを頭からかぶった。
耳たぶは慣れたものだが、軟骨の部分に開けるのは初めてだった。軟骨に開けるのは痛いと刷り込まれていたけれど、私の耳たぶにはもう穴のあくスペースは残されていなかったので、私は仕方なく軟骨の部分にピアッサーの針を当てた。力を込めると一瞬で針は柔らかい骨を貫通する。痛みなんてほとんどなかった。あってもわからないくらい、一瞬だった。最後、ぐっと力を込めると、そこからぷつりと糸の切れるような音が聞こえた。その後ゆっくりと手を下ろしピアッサーを外すと、私の耳の軟骨には、太さ一.四ミリメートルの針が楔のようにしっかりと刺さっていた。
「痛くないの」
と彼女が聞くので、
「全然痛くなかった」
と私は答えた。私は黙って彼女の手に触った。私の手は震えていた。彼女は笑うとも困るともつかない表情を浮かべ、「怖かったのかあ」と言った。

彼女は部屋の中で、スミノフを飲みながら、たくさん煙草を吸った。それは私が知っているものよりも細くて長い煙草だった。その煙草のフィルターには月がひとつ描いてあった。
私は部屋中に充満した煙草の煙のせいで痛くなった目を何度もこすったけれど、不思議と彼女に煙草をやめさせる気にはならなかった。私は梅酒をたくさん水で薄めて飲んでいた。
「お酒どのくらい入れるの」
と彼女は聞くので、私は
「指二本分くらい」
とキッチンにいる彼女に少し大きな声を出して答えた。すると彼女は、
「縦二本?」
と笑いながら言ってきた。彼女は楽しい人だった。

大きなコップに指二本分の梅酒になみなみと水を注いで更に氷を入れたほとんど味のしない飲み物を飲んで、私は彼女の指先を見ていた。煙草を何度も灰皿に叩いて、固い灰を器用に落としていく。
「ねえ佐野さん、何か悩み事とかないの」
と私がきくと、彼女は、
「えっ、悩み?悩みは……」
と言ったきり考え込んでしまった。「というか本当に悩んでんのかな、私は」と彼女は笑った。
いつも私が一方的に話をしているばかりだから、たまにはあなたの話を聞いてみたいのよ、と私が言うと、彼女はそっか、と言ってまた笑った。
「耳に穴開けるのって、みんな全然痛くないの?」
と彼女が聞くので、「個人差があるんじゃないのかな」と私は答えた。
穴の話。

彼女には恋人がいない。私にも恋人がいない。
彼女は恋人がほしいし、結婚して子どもを産んで、幸せな家庭を作りたいのだと言った。
私は恋人はほしいが、結婚はしたくないし、子供もいらないと思っていた。
彼女は言った。「私がいないと生きていけない人がほしいから、子どもがほしいのかもしれない」
私は言った。「その子どもも大きくなったらまど香のこといらなくなるんじゃないの?」
彼女はお酒を飲みながら、
「それはいいんだよ。でもその子どもは私がいなかったら生まれてこなかったわけじゃん?」
と言った。それはそうだ、と私は頷く。そういう意味では彼女はその子どもにとって居なくてはならない存在なのだ。
彼女はつい先日祖父を亡くしていた。
彼女の祖父は、彼女に言わせるととても好き勝手をして生きてきたのだという。だから祖父が死んだとき、その事実よりもまず残された祖母のことを思った、と彼女は言った。
「そのおじいちゃんは、一体何のために生きてきたんだろうね」
と私はこぼした。生きているときも死んだときも誰にも顧みられない。
「私ね、じいちゃんが死んだあと、母さんと話したよ。じいちゃんってなんだったんだろうね、って」
「お母さんはなんて言ってたの?」
と聞くと、「なんだったんだろうね、だって」と彼女は答えた。
「でも、じいちゃんがいなかったら私は生まれてこなかったわけだし、その点ではいなくちゃならない存在だったんだろうね」
と言う彼女の顔は、実にあっけらかんとしていた。私が
「そうだね、まど佳がいてくれたからね。私もその点ではおじいちゃんに感謝してるよ」
と言うと、彼女は「しらじらしい」と言ってまた笑った。開けたばかりの穴が、お酒のせいで痛み始めた。

私も彼女も、まだ処女だった。私の耳には合計五つの穴が開いていたが、私の中にはまだ穴が開いていない。
でも、私は子宮がん検診を受けたことがあった。診察台に寝かされ、足を広げると、医者が私の中に何か鉄の器具を思い切り突っ込んだ。あまりの圧迫感と痛みに私は涙も出ず、ただ口をぱくぱくさせるのがやっとだった。
その話をすると、彼女は顔をしかめて言った。
「わあ、そんなんだったら私やらなくていいや」
私は笑った。
彼女は、「ピアス開けるのよりも痛い?」と私に聞いたので、私は
「ピアス開けるよりよっぽど痛い」と答えた。事実、診察後もしばらく痛くて、病院から出たあと私はおかしな歩き方で家まで帰った、と言って、二人で笑った。
穴の話。

お酒がまわると、彼女は饒舌になった。私はそれが嬉しかった。
最近何にも楽しくない、と彼女は言った。私は一生懸命に話を聞いた。
楽しそうに談笑している人々の中で、ふと我に返る。そうするとその人たちがどんどん遠くなる。そうして寂しさを感じながらも、どこかで自分はそれにほっとしている。本当は二度とあの輪に帰りたくなかったのだ。
彼女はそう言った。
その気持ちは私にもよくわかる気がした。(気がした。ここは強調する。)高校を出てから交友を持っている唯一の友人である彼女と、今まで続いて来たのは、彼女と私の中に共通するものをそのときから見出していたからかもしれない。
「なにか、穴があいてるんだよね、生きていくのに」
私は言った。彼女は「そうかあ」とつぶやいた。
生きていくのに足りないもの、私たちに開いている穴、それは何だろうか。私たちはそれについて考え続けた。
「多分、人を思う気持ちが足りないんだろうね」
と私は言った。「私たちって、本当に本当の意味で、人を好きになったことってないのかも」
彼女はなるほど、と言って頷いた。
「母さんもお父さんも、とても大事で好きだし感謝しているけど、きっとみんないなくなっちゃっても、私は悲しむけど、きっと普通に生きていくと思う」
私がそういうと、彼女は「確かに、そうだけどね」と言った。そうして、自分の母親が死ぬ夢を見て泣きながら目覚めたときの話をしてくれた。
私も彼女もあらゆる人を愛している。だけど、本当は愛してなどいない。

火を見ると不思議な気分になる、と彼女は言った。
「大音量のオーケストラ聞いたときみたいな気持になる。ふわーってする」
その話はとても面白いな、と思った。
「蝋燭の小さい炎見ていても思うよ。不思議な感覚になる」
彼女の部屋には黒いアロマキャンドルが大量にあった。一緒に買い物に行くと、必ずそのアロマキャンドルを店に出ている分だけ大量に買って帰る。
放火魔なのかな、私は、素質ある?と彼女が手元のライターでピスタチオの殻をあぶりながら言った。殻は少しずつ焦げ、クリーム色から黒く変色する。それを見て彼女は慌てて殻を灰皿に押し付けた。
私は思った。彼女に開いたの穴の中で彼女は何かを燃やし続けている。少しずつ少しずつ、寂しさとか苦しみとか、そういったものを燃やし続けている。穴の中で燃えるそれの煙を、彼女は口から吐き出し続けているのだ。
彼女の手元を見ると、煙草の箱はいつの間にか空になっていた。
私は自分に開いた穴を目に見えるように外に出し続けている。目に見えない寂しさとか苦しみとか、それは言葉にもできない。さみしい、という四文字が全てのように見え、そこには実は何もない。それがもどかしくて、まるで自分の中にある感情の証左のように、耳に穴を開ける。
私の左耳の軟骨は、さっきからじんじんと痛み続けている。
私は酔った振りをして彼女に抱きついた。彼女は子どもにするように、私の背中を軽くたたいてくれたので、私も彼女の背中をたたいた。そうしてまた二人で笑った。


また何時間も電車を乗り継いで家に帰る途中、私は煙草とライターを買った。彼女の煙草の銘柄を憶えていなかったので、適当に買ったら、後々それが彼女が吸っているものよりも強い煙草だと知った。
家に帰って、恐る恐る煙草に火をつける。吸い込みながら先をあぶると、途端に苦しくなった。せき込みそうになるのを抑えてもう一度ゆっくり煙を吸う。はじめて吸った煙草は辛く、喉がひりひりと痛んだ。
夜のベランダで、指先で燃える小さな火をじっと見つめる。私がいなくなった後の部屋で、彼女は同じようにこの火を見つめ、そうしてまた不思議な感覚を覚えるのだろうか。

涙が出た。

ふと、自分の着ている白いTシャツの裾に、火をつけてみようかと考えた。私は彼女に何かしてあげたい。彼女のことが好きだから。彼女の寂しさや苦しみの穴をなにかで塞いでやりたい。
この部屋には灰皿がないので、私は彼女の手を思い出し、不器用に空き缶に灰を落としながら考える。
私が彼女のためにできることと言ったらきっと、彼女の前で自分の服の裾に火をつけて、燃え盛る炎を見せてあげることだけだ。

だけどそれができないことが、私にはわかっていた。彼女が彼女の耳に穴を開けられないことが、きっと彼女にもわかっていた。そしてその理由は、熱いからでも、痛いからでもない。
煙が目にしみて、私は目を開けていられなかった。

暗い穴の話。



2 DOOR

おじさんは私より二十五歳上、仕事はどんなことをしているのかは知らない。
この間会ったのは、おじさんのお父さん、つまり私のおじいちゃんが亡くなったときのことで、「帰れ」「親不孝者」と飛び散るグラスの類をまともに顔に浴びながら、何かを言っていた。あとで母に聞いたらおじさんは、「遺産」と一言だけ、それしか呟かなかったのだという。
おじさんがなにしてどこにいてどんな人生生きてきたのかとか、正直私には興味はない。
私の興味はただ一点、自分の胸の真ん中から空いた一点の空白がだんだんと大きくなっていること、それだけだ。
謎の穴が私の胸に空き始めている。それは少しずつ少しずつ大きくなって、やがて私自身がその穴そのものになってしまうのではないかと恐怖しているわけです。
保健の先生にも、内科の先生にも見えない、私にだけ見えるこの穴の中に、冬も近くなった鋭い風がひゅっと通り抜けていく、そのたび私は震える。コートの襟をいくら寄せても、風は何のことなしに私のこの穴を狙って通り抜けていく。
私がおじさんの人生にも生き方にも興味ない癖に、おじさんの話をするのは、他の誰にも見えなかったこの穴がおじさんにだけは見えたからだった。
おじさんは私の母の弟なのだが、母としては親戚中からグラスを投げつけられるような弟でも可愛かったらしく、仲は良かった。私が生まれたときにはものすごく喜んで、しょっちゅう遊びに来ては私の顔を見てニコニコしながら「この子は絶対美人になる」と言っていたそうだ。
おじさんはそのころちゃんとした会社で働いていた。十九年たってから私が実際に美人になったのかどうか、私にはどうもイエスとは言い難い。
そんなわけで、一人で東京で働いている私と、一人で東京で働かずになにかをしているおじさんとは何かと接点があった。
おじさんはやってることが謎なのだが、それは私には理解できないというだけで、ホームレスというわけでなし、目黒区祐天寺の住宅地のワンルームマンションに住んでいた。一緒にご飯を食べても、おじさんはいつも全部払ってくれた。十八で高校を卒業して、都内の保険会社の営業事務として働き始めた私の前には、わからない世の中というものが多数存在する。

「肺に穴が開く病気」についておじさんが話してくれたことがあった。肺気腫という病気で、おじさんは一回それになり死ぬほど苦しかったという。聞くところによると肺の一部が壊れてしまって、それはもうもとのようには治らない。呼吸困難で食欲も落ちて、おじさんはこのまま死ぬのかな、と思ったそうだ。それから煙草をぱったりとやめた……と思ったらたまに吸っているような気がする。というのもおじさんの目黒のマンションのベランダには、たまに煙草の吸殻が何本か落ちている。それがおじさんのものかどうかは実際にはわからないんだけど。
「私、肺に穴が空いちゃったんだけど」
そう言うと、おじさんは「ん?」という顔をした。おじさんは謎の商売をしているので髪も長ければ髭も生えている。正直もっとこぎれいにすればいいのにと思う。おじさんは前髪が長いから、「ん?」という顔をした後に前髪を左手の薬指と小指で払った。
「なんだ、肺気腫か? 立夏煙草吸ってんのか」
吸ってないよ、と私は言う。時は日曜の午後三時、眠くなるにはちょうどいい時間だった。私はおじさんの家になんとなく遊びに来ていた。おじさんは毎週日曜日は必ず家にいるので。
「肺に穴が開いたっていうか、身体に穴が空いちゃったんだけど」
おじさんはよくわからない、という顔をした。そりゃそうだろう、私にだってよくわからない。でも確かに人差し指一本分の太さの穴が、私の胸の真ん中に空いているのだ。
「ちょっと見せてみろ」
とおじさんが言って、私はためらった。正直に言っておじさんと言えども自分の胸を見せるのは恥ずかしい。それは当たり前だろう。でもおじさんにそれはあまり関係ないらしく、「早く」と急かされて私はしぶしぶニットを脱いだ。
ブラジャーの間、そう丁度二つの胸のふくらみの真ん中にそれはあった。初め私は針で刺したのかなくらいにしか思わなかったその傷は、確実に大きくなっている。一年前の夏位に発見してから、少しずつ少しずつ大きくなっていっていた。いまでは人差し指が入るくらいの大きさになっている。万華鏡のように中を覗けたらいいんだけど、私の首はそんなに柔らかくないので、中を覗くのはまず無理だった。
おじさんはしばらくその穴を見つめてじっと黙っていた。もっとも会社の健康診断の内科医にも何も言われなかった穴について、おじさんが医学的見地から何かを述べるということはまずないだろう。たっぷり数十秒おじさんは穴を見つめてから、こう言った。
「俺、立夏みたいな穴を持った子を昔見たことがあるよ」

それは世紀末のころの話なのだった。
世紀末と言えば十二年くらい前の話で、私は当時七歳だった。七歳だったころの記憶って思い出せない。小さかったときの記憶、小学生のときの記憶、中学生のときの記憶……なんていうのはだいたい思い出せても、七歳のころとピンポイントに限定された記憶というのはなかなか出てくるもんじゃないだろう。
一九九九年、空からは恐怖の大王が降ってくると言われていた。よくわからない新興宗教がぽんぽん雨後の筍状態で、有名なものは普通にテレビに出てたりもした。今となってはいろんなことが思い出せなくなったそんな世紀末だが、その存在と雰囲気は七歳の私にも肌で感じ取れるような一種特殊な、不気味なものだったような気がする。世紀末は未知のウィルスだった。大小こそあれ誰しもの心の中に巣食っていたし、なかには本気で世界が終わることを信じていた人もいたようだ。そして、世界が終わることを望んでいた人もいるはずだった。
結局世界は終わらないままそれらは残った。すべて。
一九九九年のいつだったか、一人の男が殺されたニュースを私は覚えている。金目当てかそれとも知人の犯罪か、解決したかどうか細かいことまでは忘れてしまったが、たしか男は自分の家で裸で首を絞めて殺されていた、ような気がする。その男の世界は世紀末できっちり終わった。でも大半の人にとって世界は終わらず、恐怖の大王は降ってはこず、世紀末は終わりそこにはそのままの世界だけが残った。
それっていったいどういうことなんでしょう?と私は思う。
そんな私が七歳の一九九九年、おじさんは三十二歳だった。
そのころおじさんはきちんと会社勤めをしていたらしく、朝は5時半に起きて夜は十一時を回った頃にくたくたになって帰ってくるのが日常だった、と言っていた。
「結婚なんかのこともだんだんと、まともに考えなきゃいけない年ではあったけど、まあいいかなんて逃げっぱなしのままの頃その子とは知り合った」
今と同じ、冬のことだったらしい。一九九九年の冬ってどんな感じだったっけ、と私は思い出す。二〇一一年の冬はいつもと変わらずぼんやりとしていて、昼寝の時間を過ぎた町には少しずつ灯りがともり始めている。もう少しすればあっという間にイルミネーションに埋め尽くされ、クリスマスが見事に歌い上げる愛で町は蹂躙され、疲れ切って正月を迎えるのだろう。
では一九九九年は?
予言では恐怖の大王が降ってくるのが「七の月」で、その月が多分そわそわのピークだったんだろう。それが過ぎて何事もないってわかって、それでもなにかあるかもしれないという妙な期待感のなかで冬は進行していったような気がする。なんにもなかった、安心。何にもなかった、つまんない。本当に世界は終わんないの? そんな感じ。
「誰とでもヤっちゃう女の子だったんだよ」
おじさんは言った。
「ほんと、日替わりで誰の家行ってるのかわかんない女の子だった。でもどうしてかすごく人を惹きつけるところがあって……少なくとも俺を惹きつける何かがあって、たまに遊んでたんだ。その子の穴はもっと大きくて、向こう側まで見通せた」
「ええ、大きいって、どのくらい」
立夏の頭が入っちゃうくらいかな」
と、おじさんは笑いながら言った。
それだとなんだかいろいろとまずくないか、と私は恐怖する。
「ね、おじさん、それっていろいろとまずくない」
「いろいろって?」
おじさんは私の人差し指大の穴を見つめてぼんやり呟いた。完全に昔のことを思い出している顔だった。私といえば、自分のこの正体も原因も不明の穴が、自分の頭が入るくらいに大きくなるところを想像してもういろいろ、いっぱいいっぱいだ。おじさんの前で上半身ブラジャー一枚とかもうあんまり関係ない。
「いやまず、死んでないのその人、生きてんの?」
私の疑問は至極まっとうな筈なのだが、おじさんは軽く笑って答える。
「死んでない。……というかその時点では、生きてたよ。『これ以上大きくならないの』って言って平気そうにしてた。今も生きてるのかはそれは……別問題だけど、たぶん生きてるよ。どっかで生きてる」
「穴はどうなってたの? そんだけ大きかったら中身……丸見えだったんじゃないの。それとか、あとは内蔵とか、どこいっちゃってたの? それ、変な病気として医者にかかるべきものだったの」
おじさんは私の質問攻めに、おいおいという顔をして笑った。「こういうのって俺の昔話として順を追って話していくべきことだろ。……立夏、明日何時から仕事なの」
そこで私ははっと、今日が日曜日だったことに気付く。冬の夜はいつの間にかやってくる。目黒のマンションの窓ガラスの向こうにはもうすでに家々の窓明かりが見えた。もうすっかり夜で私は本当は家に帰らなければならなかった。
「泊まってけばいい、どうせ立夏の家より俺の家から出た方が早い」
私はおじさんの家に泊まるのはなんだか気が進まないから、おじさんの家に置いてある荷物も最小限だった。おじさんと私は相互不可侵条約のようなものを結んでいるので、お互いがお互いのプライベートな空間に侵食しないよう細心の注意を払って生きている。なんか一本橋を渡る恋人たちのようだ、変な例えだけど。今日みたいに、暇だから遊びに来るのは別として、確かに私はおじさんの私生活の細かい所を知らないようにしていた。おじさんと姪という関係性はそういう妙な隙間みたいなものがある。
だけどそのとき、私はその話を聞きたい思いが勝った。
ブラジャー姿のまま窓のカーテンを閉めに行くと、黒い窓ガラスに自分の間抜けな姿が映った。顔と、鎖骨を過ぎたくらいまで伸びた髪と何年も使い古してよれよれのオレンジ色のブラジャー、その間にある穴。血の出ない穴。怪我とはまた違う穴。ほんとうに、純粋に存在しているだけのただの穴。私はそこを覗いてみたいという衝動にまた駆られる。おじさんの言う女の子ほど大きな穴だったなら、それは容易なことだったんだろうか。

「ところで名前ないの、その子に」
「あるよ」
おじさんはコーヒーを淹れながら答える。あるよ、でもそこから先言葉は続かなかった。私は待ち続けたがおじさんはゆっくりコーヒーフィルターにお湯を注ぐだけだった。
「あるの」
「ある」
「教えてくんないの?」
「あってないようなもんだったよ、名前なんて、そもそも本当にその名前なのかわかんなかったし」
「ふーん」
おじさんは机に二つマグカップを置いて、私の反対側に腰を下ろした。おじさんがコーヒーを淹れている間に着替えた私の穴はもう服で隠されてなにも見えない。こうして隠れていると私は何の変哲もないただの女に見える。
「冬子っていう名前にしよう」
おじさんは突然そう言った。トウコ、と私はくり返す。
「冬の子と書いて冬子。そっちが立夏だから」
なるほど、とうなずいて私はコーヒーに口をつけた。カーテンを閉めた向こうはもうすっかり夜で、都会の夜はつまらないなと思う。夜なのになぜか明るい紫色の空とか、灰色にどこまでも広がる雲とか。夜なのに誰も息をひそめて行動なんてしない。いつでも外には人が歩いている。つまんないな、都会は、私はもう一度そう思う。
一九九九年のこの目黒区はどんなかんじだったんだろうか。今よりもっともっと暗くて、今よりもっと、夜は恐ろしいものだったらいいのにとなんだかぼんやりそんなことを考えた。
「冬子と俺が出会ったのは、俺が三十歳になってすぐくらいだった」
いわゆる昔話を語り出す口調そのもので私は笑いだしそうになったのを堪えて、コーヒーの表面を吹くふりをしてごまかしていた。おじさんはそんな私をじろっと見てから話を続けた。「冬子は俺の会社に事務の中途で入ってきた子で、正直そんな目立つタイプではなかった。地味だったな」
「地味」
私は頭の中で地味な女の子を想像する。地味、なのに誰とでもやっちゃう女の子で、地味、で穴あき。一生懸命に考えたのち頭の中に出てきたのはラベンダー色の雲だった。
「どんな感じの地味?」
立夏は物語にリアリティを求めるタイプだな」
おじさんは笑った。
「髪が中途半端に長くて、中途半端に茶色くて、中途半端な眼鏡をかけていて、中途半端なオフィスカジュアルだよ。もっとわかんなくなりそうだけど」
「わからない」
「人ごみに紛れたら一瞬で見分けがつかなくなる、ってことだよ。でもその子は目が面白かった。だから興味を持った」
「目が?」
おじさんの話聞いてるとだんだんわけわからなくなるよ、と私は抗議した。おじさんは構わずに話をつづけた。
「よく見てるとね、仕事してる途中に突然止まるんだよ。ぱたっと数十秒、どこでもないところを見つめてから突然また作業に戻る。それが面白くてよく見てたんだ」
ふーん、と言って私はコーヒーを飲む。ラベンダーの色をした雲には目がつかない。ただ実体のない水蒸気の塊としてそこにあるだけだ。
「そんで、面白くて話しかけて、やっちゃったの?」
おじさんは首を傾げた。「そうだけど、そこに行くまでのなんか、そういうのってないの?」
「あるけど」
おじさんはうつむいて頭の後ろをぼりぼりと掻いた。
「そう、とにかくそうだな、面白くて話しかけて、やっちゃって、ますますおもしろかった。で、立夏が聞きたいのはそこから先」
「そう」
「冬子の穴はそれはきれいなもんだったよ」
おじさんが何のよどみもなく「冬子」という名前を出したので、多分その人ほんとに冬子っていう名前だったんだろうなと私は思った。「冬」子と立「夏」なんてなんか出来過ぎてる。おじさんはコーヒーカップが空になったのを見て立ち上がり、キッチンの下の収納から安い焼酎の瓶を持ってきた。
「ちょっと、酔っ払いの相手させないでよ」
私がそう言ったのが聞こえなかったようにおじさんはグラスとウーロン茶のペットボトルも一緒に持ってきて飲み始める。
「喉渇いたらウーロン茶飲んで」
私はコーヒーを飲み干して、言われた通りにウーロン茶をそこに注いで飲んだ。コーヒーとウーロン茶が混ざった液体は何とも言えない味がした。

ふっと煙のように消えてしまいそうな子なんだったな。
おじさんはそういった。
「身体はちゃんとあって、おじさんはそれを見て触ってたんでしょ?」
「触ってた」おじさんは頷く。「それでも最後まで俺はそのイメージから抜けられなかった。突然現れて、突然消える冬子。別の男の部屋から俺の部屋に来て、俺が起きる頃にはもういなくて台所にご飯作ってあって、いちいちメモがあるんだ」
帰るときいつも。「今も持ってるの、それ」
おじさんは机の片隅にある高そうなジッポに目をやった。
「燃やした、全部」
「おじさん煙草吸ってるの? まだ」
「吸ってない。吸うのは俺の友達」
しらじらした蛍光灯の光を薄緑のカーテンが吸う。もうすぐ十時になるところだった。時間はまだまだたくさんあった。

明け放した窓で、真下の洗濯物を気にしながら冬子は煙草を吸っていた。窓の桟に立てて置かれた赤いボーダーはたしかラークだった。
「久野さん、世紀末って信じます?」
そう彼女は言った。
俺は彼女のその白い丸い型と背中をぼんやり見ながら答えた。「信じない」
彼女は背中を向けたまま声だけでははは、と笑ったので、本当に笑っているのかいないのかはわからない。「私はね、世紀末信じてるよ」
煙草を灰皿でもみ消して彼女がこちらを向いた。なんの特徴もない顔も肩までの柔かそうな髪も、白い体の曲線も逆光になって淵がぼんやりと溶けていた。
「世紀末はどう」
アメリカの天気の話みたいに俺は聞いた。彼女はローテーブルの上のマグカップを持って、俺のすぐ隣に行った。
「いい感じです」
彼女は答えてコーヒーを吹いた。
「期待がある。私の人生の中で一番。これで終わりなんだと思えば何にだって優しくできる、そういうの結構いいです」
俺はなんだかよくわからなくてふうん、と答えた。
「本当に来るのか? 世紀末って。七の月に隕石は振ってこなかった」
もしかしたら、と彼女は言った。もしかしたら、あるいは象徴的な隕石が。
「象徴的?」と俺が聞くと、彼女は笑った。彼女の白いすべすべした腰に手を回すと、彼女もこちらに身を寄せて、俺の肩に頭を預けた。俺の耳の真下に彼女の髪の毛が揺れる。
そのころの俺の部屋と言えば六畳一間のぼろいアパートで、部屋の中にテーブルとベッドと本棚とテレビを置いたらそれだけでいっぱいになってしまうような部屋だった。ワイシャツやスーツはそのあたりにかけっぱなしだし、廊下のキッチンも小さく、もちろんユニットバスだ。
彼女が俺のシャツにせっせとアイロンをかけているのを見るのが好きだった。
「世界は終わらなくても、私の中の世界では何かが変わってしまったような気はします」
俺はこの答えに、なんと言ったらいいのかわからなかった。自分の右斜め下に大きな穴の開いた裸の胸がある。角度では穴の中身やらが見えてしまうのにも関わらず、いつどこから見たってそれはただの黒い空間だ。すべてを飲み込んでしまいそうな黒く大きな穴だった。
「何度も言うようだけど」
俺はそこで言葉を区切って聞く。「それ、本当に大丈夫なの?」
彼女はははは、とまた声だけで笑った。
「大丈夫だ、ただの穴だよ」
彼女の笑い声は、丁度バイオリンのなかの空洞のように彼女の声を響かせ、その振動は俺の肋骨を通ってダイレクトに身体の中に響いた。
「昔私はたくさんのものを持っていた。持っていたと言っても、人とそんなに変わらないんです、友達とか家族とか好きな服とか好きな音楽とか、野外フェスとかボーリングとか恋人とかRPGのゲームソフトか、そういうもの」
うん、と俺はその先を促す。
「そういう好きなものを、少しずつ自分の身体からはがすことができたんです。一枚ずつ一枚ずつ、日焼けの跡の皮をむくみたいにはがしていく。そうするとこの穴ができる」
俺は彼女が嘘を言っているとは思わなかったし、実際ある種の世界では自分の好きなもんを一枚ずつ器用にはがして捨てるってことは可能なんだろう。彼女がどうしてそれをしたのか、彼女に何があったのか、なんてことを俺は聞くことができなかった。それは確実に彼女の核にあたる部分の話だろうし、それを知って俺に何ができるとかできないとか、そういうことも考えたくなかった。
「世紀末が来なかったら、どうすんの」
俺が聞くと彼女は笑って「どうすればいいのかわかんないです、割と本気で」と答えた。
「これで世界が終わると思って、背負うべくして背負わされたいろんなものを捨てて、それで終わんなかったら一体どうなっちゃうんでしょう」
俺はそれには直接答えず、彼女に一つだけ願い事をした。
「ねえ、なんかものすごく恥ずかしくて変なことをお願いするってわかって言ってんだけど、その穴に頭つっこんでもいい?」
「それってすごく変なことですよ、ご想像の通り。わけがわかりません」
「穴があったらなんか突っ込むってのは、生まれついてから男に課せられた使命なんだよ」
大真面目にそういうと、彼女はそれを笑って許した。
突っ込んだ穴の中は温かく、内側にもちゃんと皮膚が張っていた。昔子どものころ、砂場で山を作ってトンネルを通したことを思い出した。向こう側から掘り進めて来る友人の、その指先に触れたその瞬間。そんなどうでもいい昔の思い出でなぜだか涙が出そうになった。
「ねえ、赤ちゃんみたいですよ、妊娠したことないけど」
彼女は笑いながら俺の背中を撫でていた。外側と、穴の中と、彼女の声が二重になって聞こえてくるのは不思議だった。穴の一番低い部分に頭を預かて痛いか聞くと、何も感じないというので、俺はいったん外に出て仰向けになって入り直し、彼女の穴を枕にする形で寝転がった。
「変! 人から人が生えている!」
彼女はずっとそう興奮しながら笑っていた。
「なあ、いろんな人とセックスするのももうやめろよ」
と俺が言うと、彼女は、
「えー、でもそれで生活成り立ってるところもあるからな」
と答えた。しばらく言葉を探すように首を上下に動かして、あきらめたように穴に頭を突っ込んでいる俺のほうに向き合ったのがわかった。
「あのね、セックスするじゃないですか、ほかのいろんな男の人と。ようするにそれはドアなの。どこにも続いていないドア。開けてもそこはいつも行き止まりで、私をどこにも連れて行ってくれない。でも開けてもなにもないとわかってるのに私は開けるのを止められないのね、言ってる意味わかる?」
「わかるよ」
俺は彼女の穴を下から見上げた。見事なまでに美しい一つの穴だった。
「だから言うんだよ、君はこの穴を埋めなきゃなんない。世紀末が終わった後の世界に生きていくには。恋人でも作りなさい」
やや間があって、彼女は「はい」と答えた。
「久野さん、この穴好き?」
俺は答える。
「この穴の美しさは他に類を見ない。でも穴のない君のこともきっと好きになる。穴がなくなっても世界は終わらない」
彼女は笑った。
なんの担保もない、責任もない、約束めいた言葉を吐くことについて、彼女はいったい何を思ったのだろう?

私は笑えなかった。恐怖だけがあった。
「それは、私がいろんな大事なものを剥がしていってるから穴が空いちゃったってことなの」
私はおじさんに聞いた。
「そうとは限らない。それは冬子のごく個人的な話であって、立夏がそうだとは思えない」
おじさんは続ける。「でも希望を持ってもいいのは、その穴は俺の頭が入るサイズにまで成長しても生きてるし、たぶんそれを埋めることも可能だったと思う。彼女の口ぶりに寄れば」
そう、と私はウーロン茶を飲む。私にこんな穴が開いた理由がまったくわからないんじゃあ、失ったものがなんだかわからないんでは解決のしようがない。
だいたい一人の人間がその意志で、自分の大切なものをシールみたいに自分からはがすなんてことは実際に可能なのか、私は考えた。答えは出なかった。私の頭で考えるには不可解でおかしなところが多すぎる。
「冬子は世紀末の子だったんだ。世紀末が彼女の胸にバカでかい穴をあけた」
「世紀末は終わって、世界は続いてるよ」
「だから、生きてるよ、たぶんどっかで。世紀末が終わった『冬子』として」
「今も連絡取らないの」
「それからしばらくして会社を辞めたんだ。向こうがね。それっきり」
要するに、とおじさんはその見解を説明してくれた。
「なにか一生懸命すり減らしてすり減らして、そうやって生きてる女の子だったんだろう。そして俺はその決定的に喪われてしまった何かに強く引き付けられた」
私はそうなりたくないなと思った。決定的に何かを失って、それは二度と手に入れることができない。そういうのは悲しいなと思う。
「そうだ、おじさん」
私はさっき着たばかりのニットを胸の上までたくし上げる。そこには指二本分入りそうな黒い穴が開いている。
「これ、覗いて」
おじさんは何も言わずに私の胸のあたりに額をつけて、その穴を覗いた。
「何が見える?」
おじさんはうーん、とうなってから答えた。「黒い穴だな、向こうなんて見通せない、ただの黒い穴だ」
私は安心半分とがっかり半分でその言葉を聞いた。覗いた向こう側になにか素敵な世界が展開されていることを望んでいたのだ。
「そう、黒い穴か」
「うん、黒い、純粋な穴だよ。穴であること以外になんの理由も欲望もない」
おじさんはウーロンハイを一口飲んで続ける。「俺はそれを美しいと思う」

風呂を借りてジャージに着替えておじさんのベッドに入るとき、ソファで寝ようとしていたおじさんが一言呟いた。それはひとりごとだったのかもしれない。それが偶然私の耳に入ってしまったのかもしれない。
「冬子、世紀末はもう終わった」
そのあと、世紀末が終わっちゃったんならいったいどうやって生きていけばいいんだろうな、と聞こえたけど、私はそれを聞こえないふりをして布団の中にもぐりこんだ。
「おやすみ立夏
「おやすみ」
短い挨拶のあとで、それぞれ共有することのできない夜がやってくる。冬子と呼ばれる女もそうだったのだろうか。どんなに肌を重ねて一瞬愛し合った相手でも、眠るときはただの孤独だ。一人の人間が、一人の人間の隣で、ただその人だけの孤独な眠り。
私はきっとドアの夢を見る。冬子が言ったように、開けても開けてもそこは真っ暗闇で、自分をどこにも連れて行ってくれない行き止まりのドアの夢を。そしてそれを私は開け続ける。何もないとわかっていても、開け続けるのだ。


3 MORE

 東北と東京でどでかい地震があって何万という人が死んでしまったあの日から五年とちょっと、今度は九州で大きな地震があってから夫の泰幸にまた殴られるようになってしまった。
 ここ三年くらいまったくなくなってついにDV完治したんだと喜んでいた矢先のことだった。
 仕事が終わって電車の中でネットニュースを読んでいると速報で九州地方震度七と出て、それをみたときになんか嫌な予感はしていたのだ。家に帰ると泰幸はキッチンの椅子に腰かけたまんまぼんやりテレビを眺めていて、そこには南阿蘇の人々がどっかの小学校の体育館に毛布を次々運び入れてくるまってインタビューを受けている映像が流れていた。「泰幸、ただいま」と声をかけても泰幸はぜんぜんこっちを見ないで首をテレビの方向に固定したまんま「おかえり」、と言って、その声は広いお寺のお堂の見えない闇の奥の奥の方から響いてきたみたいに聞こえて、あんまりにも中身空っぽの大きな穴みたいな声でいよいよ私はやばいなと戦慄する。首の後ろで冷や汗が流れる。勘弁してくれよ、と思う。私より早く仕事が終わって家に帰ってきてから泰幸はいったいどのくらいの時間その姿勢のまま地震の映像を見続けていたんだろう? すっかり汗かいた缶ビールはもう温くなってそうだし机の上にばらまかれた柿ピーとか見てるだけで私の不安はどんどん増殖する。テレビをじっと見つめる泰幸の目は実際テレビを見ているんじゃなくてその向こうの何か大きな穴みたいなところを見ている。テレビの向こうにある世界に空いた大きな穴。泰幸の目は焦点あってなくて私は三回目のやべーなを思う。振り返られたくない。振り返って「私」という「殴れる対象」があるということを泰幸に認識されたくなくて、私は泰幸の後ろを通って冷蔵庫の中からミネラルウォーター取ってきて自分の部屋(と言うか泰幸との寝室)行ってリラックスできる黒いジャージに着替えてセットしてた髪の編み込み全部ばらばらにほどいてそれからまた適当に一つにまとめ上げる。
それで小さい鞄もって玄関に行って気づかれないうちにどっかの喫茶店へゴーしようとした私はついに泰幸に気付かれる。
「美香、どこ行くつもりなん」
「えーちょっとコンビニ……」
 へ行こうかと、という言葉は最後まで続けられることなく、私は肩のあたりをグーで思いきり殴られてリビングのソファーに背中からたたきつけられる状態になる。ソファは柔かいからそこまで痛くはなかったけど、私の受け身の問題で、そんなことになるとは想像もしていなかった私の身体はつぶれたカエルみたいな恰好でダメージをもろ背中で吸収してしまった。私はしばらく息を吸うと肋骨が痛いのでそれがうまくできない。息の吸い方が変になる。ソファの足元に崩れ落ちた私の左上腕に泰幸のローキックが決まる。それで私は衝撃で横にずれて倒れる前に床に手をついて体制を整える。
電灯を背にしょっている分泰幸の顔が見え辛かったのが不幸中の幸いだ。
「こんなときにコンビニ? もっと考えることたくさんあるだろ!」
 そういう泰幸の目を私はまじまじと見てしまって悟る。あーこれあれ、またあれだ。私暫く殴られなきゃなんないんだ。
「美香、やっぱだめなんだよ、世界には大きな穴が空いてしまった。大丈夫かなと思ったけど大丈夫じゃなかったんだよ。もう大きすぎる穴が空いちゃったんだよ。だから世界はこんな風に壊れてきてんだよ」
私は焦点の合わない泰幸の目を見ながら、なにがだめなんだよ、と考える。被災して死んじゃった人たちは残念だし気の毒だけど、あそこでまだ頑張って生き延びようとしてる人たちもいんじゃん、なにも終わってなんかないじゃん。そしてその前に、世界に穴なんて空いてないじゃん。
そして私は五年前はどうしたっけな、と思い出す。五年前はちゃんと殴られていた。
 五年前私も泰幸も大学卒業目前の二十二歳で、その年の三月、卒業式の前に震災が起こって私たちの卒業式はなんにもなくなってしまった。そりゃ関東の一部も被災したので当然と言えば当然なのだが卒業式は自粛。無期限延期。振袖を着ておしゃれしようと思っていた私は結構がっかりしたのを覚えている。そしてそのあと、泰幸は今回みたいに「世界に穴が空いてしまったんだよ」とかわけのわかんないことを言いながら私を殴りつけるようになる。そんときにはもう私は泰幸と同じ家に住んでいた、ていうか同棲してたのでほぼ毎日殴られていたと言ってもいいと思う。初めて殴られたときの衝撃と恐怖は忘れようったって中々忘れられるようなもんじゃない。体の中がじわーっと熱くなって汗がだらだら出てきて、抵抗とか逃げるとかっていう前に身体も心も恐怖でいっぱいになって、私は池の鯉みたいに口をぱくぱくしたまま何もできずに座り込んでいる。もう足に力が入らないのだ。自分がそうしろと命じてもないのに、そこら中がガタガタ震える。それこそ地震みたいに、跳ねるみたいに縦揺れして、力入らないくて立てない私の二の腕あたりを泰幸は思いっきりガツーンとキックする。
私は恐怖となにがなんだかわからない混乱の中で涙が出てくる。そしてこれは結局最後まで止まらない。最後っていうのは、三年前に泰幸が最後に暴力ふるったときだ。そのあとぱったり泰幸は私を殴るのをやめて、なんか本当に普通のカップルに戻ってうまくやってきたのに、地震がまた泰幸の何かを壊してしまったのかもしれない。とにかくどんなに殴られるのに心が慣れても、あーまたかハイハイと私が身体を差し出せるレベルにまで暴力が日常化しても、やっぱり殴られるとショックと恐怖と痛みでちゃんと涙は流れるのだ。
 泰幸は主に私の上半身を執拗に殴り、下半身には手を出してこないのが一番ムカつく。私の下半身は下半身で別の「お仕事」があるので、泰幸はそっちに手を出さない。だいたい私の胸とか腕とか、ひどいときはお腹とかを殴る。一回思いっきりお腹殴られて私がたまらずキッチンで思いっきりゲロ吐いたら、それからお腹に手を出されることはあんまり多くなくなった。そういう状況判断できる理性が残ってるところもムカつく。腹殴ってひどいことになったって判断できるんなら最初っから殴るなんて行為自体をやめてほしかった。
そんな風に思っているのに、私はなぜか抵抗もなく殴られ続けたので自分でもおかしいと思う。共依存とかなんとかなのか? 私は殴っている間泰幸ムカつくぜってー殺すとか思っても、殴り終わった後何も言えずに子供みたいにわんわん泣きまくる泰幸を見てるとああ、怖かったんだねごめんねもう大丈夫だよ、と優しく抱きしめたくなってしまう。これって非常にまずい負のスパイラルに陥っていると思っても私は結局泣いている泰幸の手を引いて背中さすりながらベッド連れてって布団に入れてあげて、となりで泰幸を抱きしめながら眠る。泰幸はしばらくミカミカ言いながらしゃくりあげて泣き疲れてすっと眠る。それを見てなんか別の意味の涙が私の目からあふれてくる。私はやっぱりこんなことされても結局泰幸のことが好きなんだわ、と愛みたいなものを感じる。一生私が守ってあげるからね、と思う。そのときは。
 そんでまた殴られて痛い思いしてこいつ絶対殺すとか別れるとか思ってホームセンターでノコギリ買って泰幸の二本の手を切り落そうと計画立てたりとかしてみる。でも結局殴られると許して、その繰り返しだった。見付かったノコギリは新品だったけど泰幸は何も言わずに袋に「危険物」って書いてゴミに出した。
 関東は被災したけど私たちの友達とか家族とかは全員ちゃんと無事で、計画停電があったりしたけどごはんに困ったりとかもなく生きてて、べつに東北にも今回の九州にも親戚とか親しい人はいなくて、私も泰幸もそんなトラウマ植えつけられるほどの経験はしてない、はずだった。でもそれは私だけで泰幸は違ったのかもしれない。泰幸は地震に対してなにか私の理解の及ばない、別の受け取り方をして、それで結構苦しんでいるのかもしれない。
 そういえば五年前の地震のとき、泰幸が同じようなこと言ってたな、と私は蹴られた二の腕をさすりながら唐突に思い出す。
 五年前地震があった日、帰宅難民になったものの私は三時間、泰幸は五時間かけてそれぞれの大学から歩いて和光市の家まで帰り着いた。その次の朝私と泰幸はいつもと変わらず二人でパンとコーヒー食べようとしてて、朝のニュースのテレビの画面には被災した宮城の海岸が映し出されていた。何もない暗い海岸でおじさんが一人ロープを手繰り寄せるようなことをやっていて、その映像をバックにニュースキャスターがこう言った。
「この〇〇海岸には今朝犠牲者の遺体が百人ほど打ち上げられたそうです」
 私と泰幸は二人で朝食を食べながらその言葉を聞き、私は思わず笑いそうになった。笑いそうになったってのは面白かったとか馬鹿にしたとかそういう感情ではなくて、ただあまりにも非現実なことを淡々と言われたのでどういう反応していいのかわからなかったのだ。人が、ご飯食べたり仕事したり辛いことして涙を流したり楽しいことしたり、もしかしたら私と話したことが一回はあるかもしれない、そういうどこかの人が、なんかクジラか魚かなんかみたいに「浜辺に打ち上げられる」って一体どういうことなのか。それも百人も。今出た映像は多分その遺体が回収されたあとのもので、おじさんと浜とロープ以外になにもなかったけどあそこに百人。物言わぬ人間がずらっと並べられてて彼らは全員逃げ遅れて津波に巻き込まれて溺れ死んで、そんで流木みたいに浜に打ち上げられるってなんだそれ。と、思ったら感情に対して表出する行動がついてこなかった。混乱してちぐはぐなことを選んでしまって結局私は笑いそうになってそれでも堪えてコーヒーを飲むふりをした。すると泰幸が言った。
「世界はもう壊れちゃったんだ」
 私はそれを聞いてびっくりする。何言ってんだ泰幸。「なに、どしたの」と私が聞くともう泰幸はなんも言わなかった。世界が壊れちゃったんだ。そう言ったって世界はどこも壊れてないじゃん、と思う。それから突然泰幸によるいわゆるドメスティックバイオレンスが始まって、たびたび泰幸は「世界が壊れちゃった」だの「世界に大きな穴が空いちゃった」だの繰り返すようになった。
でもあとから思ったんだけど、あれは世界っていうより「泰幸の」世界が壊れちゃって、穴が空いちゃったってことなんじゃないだろうか。津波で人々の大切なものがすべて押し流されて失われてしまったそのとき、泰幸のなかの大切なものも全部押し流されてしまったんだろうか?

 結局その日は私が黙って二の腕をさすってるうちに泰幸が泣き始め、私はまた仕方ないなと思いながら泰幸を寝かしつけたあと部屋を暗くしてテレビを見ながらお茶漬けを一人で食べた。そして次の日もまたその次の日も余震のニュースを聞くたびに泰幸は私を殴ったり蹴ったりするのでもうすぐ夏だと言うのに私は長袖しか着られなくなり、会社の営業アシスタントの若い子に「暑そうですねー!」と悪意なくさわやかに言われる。阿蘇山が噴火したとニュースでやったあとは「もうどうしたらいいんだよこんなに穴空いちゃって! もう直せねーじゃねーかちくしょう!」とほぼ叫びながら泰幸は私をボコボコにしたので次の日私の左頬がパンパンに腫れて私は会社を休む。そのときはさすがの私も大声で「泰幸やめてよー!」と抵抗したので多分ご近所さんも何かあったなと思ってそろそろ通報されるかもしれない。でも私は通報されて開放されたらいいなと思いながらも実はそんなに積極的ではなくて、できれば大事にならずにこのまま済めばいいなとまだ思っている。甘すぎるだろうと思っても私はやっぱり泰幸を愛してるので何度殴られても嫌いになんてなれないし見捨てることも警察に突き出すこともシェルターに避難することもできない。
 お茶漬けのためにお湯を沸かしている間、泰幸を見に行くと子どもみたいに身体をぎゅっとまるめて泣きながら眠っていた。私はお茶漬けを食べながら自分の服に隠された青々としたいくつものあざについて考え、泰幸が言うところの「世界の穴」について考え、泰幸の暴力について考える。殴られても私はキレて出て行ったりなんてしないし、不安定じゃないときは泰幸も優しくてちゃんとした夫婦らしく私と泰幸はラブラブでセックスしたりもする。夫婦なんだからそろそろ子どもがほしいなとか考えたりする。よくよく考えてみればあんな格好させられていろいろさせられたりしたりセックスも暴力に限りなく近い。そう思えば泰幸が私を殴ったり蹴ったりするのは私に対する限りない愛情からなのかもしれない。なんでそう思うのかはわからないし、私はこの悲しくて理不尽な仕打ちをそういうことにして自分を納得させたいのかもしれない。いろいろよくわからないなと思いながら私はテレビだけついてる真っ暗な部屋の中でお茶漬けをもぐもぐ食べ続ける。
できることなら泰幸の世界のなかで何が起こっちゃったのか知りたいし、世界に穴が空いちゃったんだったら一緒にそれを見に行きたい。そんで一緒にそれを直したいと思う。

二か月後長野の安曇野で震度七の大地震が起こったとき泰幸はついに失踪した。朝ニュースを見て家を出て会社に行ったはずの泰幸は、大江戸線に乗ってそのままどこかに行ったらしく携帯もつながらず上司が心配して私に電話をかけてくる。私はそれこそ寝耳に水状態で泰幸の携帯に電話かけまくるけど結局一度もつながらない。不安で仕事が手につかないし泰幸が家に帰ってきてるかもしれないので私は適当な理由を見繕って上司に謝って早退させてもらう。
家に帰っても泰幸はいなかった。置き手紙もなかった。
 それから私は夫が失踪したということなんて誰にも言えるわけないのでとりあえずは出版社に行って働き続ける。主に小学生向けの教育雑誌の校正の仕事をしている私は毎日何万もの文字とにらめっこしながら日々を過ごしていく。でも家に帰っても泰幸がいないので私は家でわんわん泣く。たとえ暴力ふるわれたって泰幸が好きだから耐えてきたのに神様この仕打ちはあんまりだわと思って泣きまくる。でも次の日はなにもないような顔をして仕事にせっせと出かけていく。
 そうこうして上半身の青あざもすっかり薄くなってきたある日私は突然昼ご飯を全部戻してしまう。まさかと思ったら妊娠していた。もう間違いなく泰幸の子なんだけどここには泰幸がいないから私は妊娠したということに対して不安で不安でたまらなくなってつながらなくて諦めていた泰幸の携帯に電話をかけると、奇跡的に泰幸が出た。
「もしもし?」
 私がそう言うと泰幸も「もしもし」と言った。その声を聴いたら不安だの恋しさだの疲れだの怒りだの寂しさだのが一気にぐちゃぐちゃに絡まって出てきたので私は電話口で号泣しながら泰幸に向かって怒鳴る。
「なにやってんの? いまどこにいんの? 子どもできたんだけど!」
泰幸は電話口の向こうで一瞬言葉に詰まる。そして私はそうか、泰幸はほかに女ができたんだ、と思う。そう考えてみれば暴力だって突然泰幸がいなくなったのにだって全部納得できる理由ができる。「泰幸、いまどこにいんの?」
駒場さんとこ」
 泰幸が出した名前に覚えがなくて私は「誰それ。女?」と聞く。
「違うって!」
 泰幸は電話口で間髪入れずそう返した。
「じゃあなんで私んとこからいなくなったの。泰幸浮気してたんじゃん? だから私んとこ殴ったり蹴ったりして結局その女と逃げたんじゃん?」
 そうならそうと初めから言ってくれたら私もいろいろ考えたり悩んだり泣かなくて済んだ。私は泰幸のこと愛してたから本当にショック受けたかもしれないけどこんな風に苦しまなくて済んだ。
「違う、違う違うって美香、ちょっと待って駒場さんいまそこにいるから。代わるから」
え? は? 今そんな一緒にいる女に電話変わられても困るからやめて、と言い終わらないうちに電話口に渋いおっさんの声がする。「あー、もしもし? 駒場です」
 今度は私が絶句する番になる。「……もしもし?」
「あー、美香さん? 新野くんからよく聞いてますよ、はじめまして」
 渋いおっさん駒場さんはゆっくりと落ち着いた喋り方と渋い声で私にそう言うので、私もなんとなく落ち着いてきて「いつも夫がお世話になっております」と返す。
「新野君ね、浮気してるわけじゃないんだよ。ごめんね、彼、やっぱり何も言ってなかったんだね。今ね、ウチの仕事のお手伝いしてもらってるから」
 と駒場さんは言う。
「お仕事って、なんの仕事ですか」
「あー、今ね、五年くらい前からだけどね、地震、いっぱいあるでしょう。あの地震をね、止めるお仕事してて、それ手伝ってもらってるんですよ、よく働きますよ、新野君」
 地震を止める仕事? 「それってつまり、どっかの研究員だったり、そういう機械作ったりしてるってことですか」
 私がそう聞くと、駒場さんという推定四十代の男の人ははははと鷹揚に笑った。「違います、我々のしてるのはね、もっと確実で地道なお仕事だ。穴を埋めてるんですよ」
「穴?」
「そうです。世界というのはね、もう生まれて何億年も経ってるですな。まあ星の中では若者ですが、それでもやっぱりどっかしらガタがくるもんだ。人間と同じです。それでね、けっこう世界に最近どかどか穴が空いてきちまった。そうすると世界を支えてるものがだんだんね、ゆるくなってきて、地震やなんやらがたくさん起きる。我々はその空いてしまった穴をね、埋めて、補修して、もっと世界が元気になるようにしてる。まあ、言ってみれば世界のお医者さんみたいなもんだ」
 そんでまたはははと頼もしい声で笑う駒場さんの話を聞いて私はもう頭の中ちんぷんかんぷんになっている。穴が空いてる? 世界に? そんで泰幸とか駒場さんとかが地道にその穴を埋めて、世界を災害から守ってるなんて話は荒唐無稽すぎて信じらんないんだけどなんか駒場さんの言葉を聞いてるとそれが本当のことに思えてきて私はすんなり納得して「そうだったんですか~……」とか言っている。
「そう、だから今ね、新野君、借りちゃってるんですけど、もうすぐ日本のはあらかた埋められるから、新野君もね、美香さんに申し訳なくて帰れないって言ってたけど、帰すからね。ごめんね」
 じゃあ新野君に代わるね、と言って電話口の声が遠くなる。「もしもし?」と泰幸が今度は私に言った。
「なんでぜんぜん、なんも言ってくんなかったの」
 私がそう泰幸に言うと、「だって、穴はさ、美香もわかると思うけど誰にでも見えるもんじゃなかったんだよ。俺には見えるけど、見えない人の方が多いし、そういう話して急に美香が信じられるかって言ったらそうじゃないじゃん」
「でも私今信じたよ」
「今だから、っていうのあるでしょ。でも……なんも言わないで勝手に出てきてホントにごめん。それは。だって次に穴空いて弛んで地震起きるの埼玉の下だったんだよ。俺もうどうしたらいいのかわかんなくて。そのとき駒場さんが俺見つけて、そういう穴見える人少ないからこっちも人手不足で、もうすぐ働くことになっちゃって、そしたら美香にどんどん連絡しづらくなって……」
 ごめん、と泰幸は謝る。でももうそんなん許すしかできない。
「なんでじゃあ、私のことぶったり蹴ったりしたの」
「それも、ごめん、穴いっぱい見えて、でもそれ俺だけで、俺そのせいで地震あっていろんな人死ぬの見てるしかできなくて、俺おかしいのかな? って、不安で、子どもだった。もう今はこの仕事して俺がおかしいんじゃないってわかったし、大丈夫だから、もう絶対」
美香のこと憎かったんじゃなくて、わかってくれないと思って怒ってたんじゃなくて、なんでかわかんないけど愛しくて殴ってた、と泰幸は言う。そんなことってあるんだろうか。愛しいのに相手を殴っちゃうとか変じゃないか? と私は思うんだけどそれは思っただけで、たぶん私も心のどっかでわかっていたのでどんなに殴られても泰幸のこと愛しくて大好きで、許していたのだ。だから泰幸にいろいろ言われても今更あんまり驚かない。
「泰幸、泰幸は私のことぜんぜんわかってない、私は泰幸が思ってるよりもっといろんなことわかってた。もしも私が理解できないだろうって思っても、諦めないで全部話してくれたらよかったのに」
 うん、と電話口で泰幸が言う。「でさ、その穴、俺にも空いてたの、実は」
「え? 穴? 泰幸に?」
「そう、俺にもちっちゃい穴がいっぱい空いてて、でもそれ誰にも見えなかったから変な病気か俺の幻覚かもうなんかよくわかんなくて、医者とか行ってたけど原因ぜんぜんわかんなくて俺死ぬのかなって思ってて、でもそれも駒場さんとこで治してもらってるから、大丈夫だから」
私はびっくりするわそんなこと隠されてて呆れるわでもう言葉が出てこなかった。
「なんなのもう……なんでなんも言ってくんないの……」
 涙声で言葉に詰まる私に泰幸が慌てたように言う。「いやもうほんと、大丈夫だから全然、心配しないで」
「大丈夫とかそういう話じゃないっしょ。なんでずっとそんな大事なこと黙ってんの……意味わかんない、泰幸お父さんになんだよ。わかってんの」
 そう言うと泰幸が電話口で「そうだよ子ども! 俺すごい嬉しいよ。とにかく身体大事にしてよ、もうほんと頼むから」
 こいつ馬鹿かな、と思う。何が嬉しいだよ身体大事にしてよだよずっとほったらかしにしといてそれはねーよ、と思いながらも私は泰幸が本気で子どもができたことを喜んでくれていると知って嬉しくなる。そしたらなんか切なくて愛しさみたいなものがぶわっとこみあげてきた。
「大事にするから、身体、大丈夫だから、だからはやく泰幸も帰ってきてよ、一人じゃ不安だよ」
「うん」
 泰幸は急に神妙な口調でそう言う。
「うん、今埋めてるとこ終わったら絶対早く帰るから、だから、ごめんな、今までのこと全部。ありがとう」
「そんな明日死んじゃうみたいな言い方やめてよ。約束してよ。ちゃんと帰ってくるって」
「約束する。あと明日まとまったお金美香の口座に振り込むから」
 結構稼いだから俺、と言って泰幸が笑う。「それでベビー用品とかいっぱい買おう」
「気が早いよ」
 と、私も笑う。
 それきりなんか話したいことも全部言ったような気がして、話すこともそんななくなって、私と泰幸は一言二言なんか言って、そして電話を切る。そして電話切ったあと私は寂しくなってわんわん泣く。いろんなこと知らなさ過ぎたし、いろんなこと見えなかったのはしかたないのかもしれないけどそれでも、いろいろ気づいてあげられなくて泰幸の顔が見たくて声が聞きたくて、お腹の中に命があると思ってなんかよくわからないけど熱い涙を流し続ける。
 世界はだんだんといろんなものが壊れて、地震とか災害があって人がたくさん死んじゃって、大事な人を失くしちゃった人もいて、世界は今日も悲しいことが起きていて誰かが悲しんでいてそれでもお腹の中に新しい命がある。
 幸せになりたいなと思って私は泣く。
 正しくは、もっと世界が幸せにならないかなと思って泣く。そうすると、私には世界に空いちゃったたくさんの穴は見えないけど、なんとなく泰幸の気持ちがわかるような気がしてくる。

 三日後私の口座に「ニイノ ヤスユキ」の名義で百万どかんと振り込まれているのを見て私は思わず笑ってしまう。
 お金なんてそんなたくさんいらないから早く泰幸に戻ってきてほしいと思う。でも泰幸は、人知れず世界の悲しみのために働いているのでなんか大きなことは言えない。毎晩寂しいし泰幸に対して怒ってるには怒ってるけど、やっぱり泰幸のこと愛してるから結局なんでも許してしまう。
とりあえず私は身体を冷やさないように、泰幸に殴られた青あざはもうだいぶ薄くなってるけど長袖のカーディガンを羽織って電車に乗る。
そして電車の中で、そういえばあれ以来地震がないな、と思う。

そしていつか何か大きな愛みたいなものが世界に空いてしまった痛ましい穴をふさいでくれることを、私は待っている。