ex-若者のすべて

夏が終わる〜〜ッッッ

夏、終わり唐突すぎて毎年ついていけないけど、この終わり方は結構好き。私は波が寄せて返すのをずっと見ていた。波が引いて、また来ると思ったらもうそれは二度と来なかった。唐突。私は足元の貝殻を拾って、海を見つめる、だけどやっぱり波はもう来ない。最後だと知らなかった。それが最後だと知っていたなら、もっと、違う、何かをしたのに。

終わりを告げずにいなくなる、夏っていつもそんなんで勝手なところが好きだ。

もう風が涼しいんだ。

 

世の中っていろんなものあるなあっていつも、いくつ歳をとっても思ってしまう。昨年の今頃考えもしなかったようなことがたくさん起きる。運命という簡単で雑なまとめ方しそう、たとえ短い時間だけでも、今ここで会えたことはなにかの意味があると思わずにいられない。世界は私にたくさんのものを与える。

空が青い〜とか、無秩序な雲のかたち、思い出せなくなったもの、足元のアリ、草の色、葉っぱのつき方(芸術的!)、花が咲いている。最後の朝顔のグラデーション、何一つ同じものがない世界、不思議、ヤバい

多分世の中から不幸や悲しみがなくなったりはしない、人が生きる限りそれはあり続け、誰かを苦しめ、誰かを泣かせ、でも悲しみがあるから私たち喜びを感じることができる。悲しみを礎にして愛を確かめることができる。

あなたが傷ついているなら私はそばにいたいと思う。誰かを慰めたりするのあまり得意じゃなくて、なんて言ったらいいのかわかんないしご飯をうまく作れるわけじゃないし運転が上手くないしどこに連れてったら喜ぶとかもよくわかんない(コミュニケーション能力の欠如)

でもあなたが悲しいなら私はそれを知りたい、知ってあなたの望むことをしたい。

私のとても大切な人が、好きな人と離れなくちゃいけなくて

私にできることあまりに少ないけど、元気にしてあげるにはどーすればいいのかなと考えている。

彼女が私にしてくれたこと、あまりに多すぎて 私はなにを返せるだろう?

でも今まで東京にいたときとは違う、今は割と近くにいるから、そういうタイミングを逃さずここにいられたこと、私がちゃんとそれを選べたこと、なにか意味を持たせることができるだろ

まとまりがないけどそういうことを思っている

私に与えてくれたすべての人へ

私はなにを返せるのだろう?

とりあえず私は働く お仕事は結構楽しい 給与は低いが(つらい)

夏じゃん

夏じゃん!!!気づいた!!

実家帰ってきて一年経ちました。はえーよ 足抜けできねえな 耐えられない空虚が襲いかかるたまに、抗えない恐ろしさ

愛されてえよ〜ってわめく、愛さないのに、幻をずっと見ていて

私なんでも好き、なにもかも、影や光や声や温度や湿度やまつげや振る舞いのすべて、心、美しく見えて

でもそれ実物とはきっとかけ離れてて

ほんとはこの世のどこにもない

でも捨てられないもの

いつでもめちゃくちゃほしいの、現実 触れる身体、幻像じゃないもの

心には形がないからいつも確かめずにはいられない、みんな確かめなくても生きていけるのすごい

もっと簡単に愛したり

信じるってあまりに漠然としててなにを、信じる? 私自分の知覚すら信じられないことよくある

たぶん満たされないそういう予感が

安心したい、不安にならなくてもいいように 触れていたい すべて自分のためだけに

いつだってすべて、自分のためだけに

歌みたいな恋なんて

そんなもんはねえわ〜〜〜〜!!!!現実はそれを36倍希釈したもの!!

すべてがまぼろし!!!

後ろを振り返るな!走れ!

そうしないとなにか恐ろしいものに捕まってしまうんだ!!

走れ!逃げろ!!世界の果てまで!!

 

あなたは私を見つけられない。私はあなたを探している。私はあなたを見つけられない。誰かが私を探している。私は見つかりたくないから逃げる。誰かが私を見つけにくる。私は逃げ続ける。しかし私は見つかってしまう。私は誰かを見つけてしまう。あなたをもう見つけられない。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
あ~~~年明けてしまったん???オワ

人生どうですか?
ついに20代最後の年になってしまいました。
人間的にクソなのでなんにも長続きせず焦燥感だけが募っていきます。ヤバイ!ヤバイヤバイ!

夢なんてないんだなとかなりたいものもやりたいこともないんだなと思いました。
なんてつまらん人生なんだ
面白くしたいよね

正月ボケが抜けていませんが残り3か月一生懸命ニートとして生きたいと思います。

sketch 41

あっという間に冬になりそうです。
また一つ歳をとりました。昔は思い描いていた「大人」からはかけ離れた人間になっています。

寒いといろいろ辛いよね。
私は寒い時期にいろんな悪いことが重なって、あんまり冬にいい印象がないので春になるまで冬眠していたいです。
いつまでたっても色あせない、とけることのない呪い。

寒くなっていいのは、星空がきれいに見えることです。
もっと山の方にいけば満天の星空を見ることができるんだろうけど、さすがに夜道の車の運転しかも山、はハードルが高いのでだめです。
オリオン座がはっきり見えます。痛いほどに寒いです。

光が降ってくるイメージがあります。
何枚かのガラスを通して、やわらかくにぶくなった光が降り注いでくるイメージ。
そういう日がくればいいのになあと思っています。
なにか赦しのようなものを与えられる日。
私はいつだって待ってばかりいます。

うーん、最近は手に職つけるためにコーディングの勉強を始めました。
在宅で働けるようになるのが目標です。何年かかるかわからないな……。

日があっという間に落ちるようになってきました。
山の稜線が光って、空は薄い水色からオレンジのグラデーションに染まります。
自然というものをもっと感じられるようになれたら、私は自らの「存在」を少し手放せるようになるのかもしれません。

自分の「存在」にしがみついていると、けっこう苦しいことばかりです。
今世ではできるだけ徳を積んで、来世は絶対草になりたいです。

sketch 40

「死をしめだすのは一回きりの行為ではあり得ない。ぼくたちの意識はつねに死に侵されようとしているので、ぼくたちはそれをしめだしつづけなければならない。たえざるたたかいが必要なのだ。

たたかいにつかれたぼくらが矛盾のない平和な眠りとしての死の魅惑をはげしく感じる時、生命が死の本能(フロイト)を持っているというのが真実のように思われてくる。

無機物が生命を獲得した時に大きな緊張が生じ、生命体はたえずその緊張からのがれて無機物にかえろうとする傾向をもつ。これが、粗雑な説明だが、死の本能の源であると言われている。この仮説を認めるならば、人間もまた死の魅惑からのがれられないのだろうか?」 

「しかし、死の魅惑が生物学的な本能だとしても、死が具体的にぼくたちに力を及ぼすのは矛盾に満ちた社会的現実の中でであり、死の魅惑はそこからの出口としての魅惑である。

つまり、死のもつ意味は決して〈生物学的〉ではあり得ない。死の魅惑の力は歴史的現実にからみあわせて測られる。しばしば甘美なのは死の観念であり、現実の死は多くみじめだ。

そのうえ、ぼくたちの社会は決して正当化され得ない数知れぬ死を含んでいる。そしてみずから意識しているかどうかは別として、そのような死のうえにあぐらをかいて温和な微笑をうかべている人間もいる。

ぼくらはナメられているわけにはいかない。たたかいをはじめなければならない。」

渡辺武信「風の中から 書くことの位置づけの試み」)

死の観念というのは本当に美しく、魅惑的で、それはオフィーリアの絵が美しいのと同じ理由だ。
死は夢とロマンにあふれている。

なぜ死がそこまで美しく思えるかと言えば、それは「想像の彼岸」に行くことだから。
私たちが憧れ求めやまないものはいつでも彼岸にあり、それは手の届かないところにあるからとても美しい。
死も愛も、友情も永遠も、奇跡も楽園も、すべて私たちの手の届かないところで美しく輝いている。
私たちは星をつかむことはできない。そしてあの星に降り立つこともできない。

彼岸の誘惑というのはとても強く、はげしく、私は一生目を覚ますことなく眠り続けたい。

理由のない激しい怒りの感情にとても疲弊している。何にこんなにイライラしているのかわからないけれど本当はわかっている。
血のつながった人間を無条件に愛せるかと言えばそうじゃないことだって往々にある。距離をとってはじめて愛しあえる人間だっている。
私の考える「愛」と他人の考える「愛」は時折すれ違いを見せる。私の求めるものと相手の与えるものが違うことだってある。
何をこんなにイライラしているのかよくわからない、わかっている、わからない。言葉にして決定的に壊してしまう前に離れなければいけないと強く思う。

私の人生は闘争続きだ、「私」と闘っている、社会的な私、正しい私と闘っている。
私はいつも社会的な言葉を代弁している「私」がいるので、社会的に正しくないことを許さない、まあつまり社会と闘っているということになるのか。
だれも私を責めていないし、誰も私を殺しはしないけれど、私はいつも私を責める社会とか私を殺す誰かと闘っているような気がする。だれもそんなことしないのに。
私が死を夢見るときは、遠い遠い憧れとともにこの世界からの逃避を夢見ているのだ。
二度と戻ってこられない彼岸への旅を夢見ている。

両親に愛されていることを知っているけど、私のなかを通り抜けていくだけなんだなあ。褒められても怒られても、私のなかを通り抜けていくだけなんだなあ。おいしいものを食べても、友達とカラオケに行っても、楽しくおしゃべりしても、私のなかを通り抜けていくだけなんだなあ。私のなかには決定的になにかが足りないような気がとってもした。私は一枚の透明な板でしかない。

とても苦しい、でもこの苦しみがなにかを生み出すと信じていないと、私が信じていないとどうしようもなくなってしまう。
無意味に生を享受することになってしまう。意味の病にかかっているから、なにもないということには耐えられそうもない。戦いの日々を続けています。

HOLE 三部作

2016年の文学フリマで出した「HOLE」という本、穴についての短編三本だったのですが、割と気に入っている話もあるのでここに載せておきます。
身体に空いた「穴」というモチーフをたびたび私は使います。反復します。

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