呼吸

 重力が強すぎて耐えられないときがある、彼女はそういうとき、いつでも身体を三つ折りにした。膝で一回、腰で一回自分の身体を折ると、彼女はジーンズの尻ポケットにすっぽりとおさまる財布みたいに薄くなれる。そうするとなんとなく呼吸をするのが楽になる気がする。科学的には逆らしいが、彼女には上に伸びれば伸びるほど重力は強くなるように思えた。あるいは、それは重力ではなくなにかが自分を強く引っ張る力だった。
 彼女は別に背が高いわけではなかったが、それでもどこかへ自分を引っ張る力が強すぎて、ときどきうまく呼吸ができない。そういうときは身体を三つに折って、かかる力を小さくする。彼女は太ももの上にぴったりと自分の胸をくっつけることができて、くっついたその場所で自分の胸がきちんと上下することを知り、肺が膨らんだりしぼんだりしていることを知り、自分がちゃんと呼吸できていることを知った。
 彼女の部屋には一人の友人がいて、それはもうすっかり枯れてしまったガジュマルの木だった。花屋で買ってきた小さいものだ。彼女は植物を育てるのがとてもとても下手だったので、今までたくさんの植物を枯らしてきたが、例にもれずそのガジュマルも、日に当てず水をあげるのも忘れて、寒いところに引っ越したらすっかり枯れてしまった。もしかしたら、もしかしなくても多分もう彼は死んでるのかもしれない、と彼女は考えた。でも生きているときの彼より、死んで枯れてしまった彼のことの方が愛せるような気がしたので、彼女はたまに彼に向かって話しかけていた。
 思うに、この力に逆らえるものなんてこの世にはないんだわ。
 鳥だって自分の飛べる以上の高さには行けないし、私たちみんな、飛べば絶対に落ちるじゃない。私があなたを愛せるようになったのはきっと、あなたがそれ以上上に向かって伸びなくなったからかもしれない。彼女はコーヒーを飲みながら、彼に話しかける。
 私は二階以上の建物に住むのって苦手。だってそれだけ上にいるんだから力だって強くなって、私は息ができなくなる。涙だって流したそばから下にどんどんこぼれ落ちる。私はその法則を美しいと思うし、そしてなにごともそうあるべきだと思う。下に。私たちは下に引っ張られる力から逃れられない、地面に穴が開いていればどこまでも下に落ちていく。その先に何があるのかはわからないけど。
 彼は何も答えなかった。
 返事がないのでしかたなく彼女は重力について考え続ける。なぜこんな力が存在するのか。でも重力がなかったらこの世のあらゆるものがバラバラになって、どこかに飛んでいってしまう。私の流した涙も全部、バラバラになって世界のあらゆる場所に拡散されて消えてしまう。でも重力があれば、私は自分が流した涙を全部コップに集めてしまうこともできる。そんなことしても別に何にもならないけど。でも自分からどれだけの水分がでたのか計測してみるっていうのもきっと面白いと思う。
 彼女は考える、結びつきを失って自由にとんでいってしまうものたちのことを。あなたもきっと土から離れて、枝も全部バラバラになって自分がいったいなんだったのか、どこへ行ったのかわからなくなるよ。彼にそう話しかける。もちろん返事はない。
 彼女は自分が身体と感情を持った存在だということがとても重く感じることがある。それは本当に重い。指一本動かせないほどの力を感じ、実際に指一本も動かせない日がくる。そういうとき、彼女の目からは涙があふれて、ぽろぽろと重力に従って落下していく。人は悲しいとき、なぜか目の表面に水をたたえ、そうしてその重みに耐えられなくなって水は自然に落下していく。ティッシュだったり、枕のカバーなんかにしみこんでいき、それはもうこぼれ落ちる瞬間の美しい球体ではない。形を失って存在から解放されている。
 彼女はうらやましいと思う。形を失うことを。自分の重みから解放され、存在から解放されることを。だけど同時に、それはつまらないことだろうなとも思っている。多分。多分ね、私自分の形失ったことないからわからないけど。彼女はそう彼に話しかける。彼女は泣いている。目に湛えられた水はやっぱりその重みに耐えられず落下していく。いくつかの粒がコーヒーの中に落ちて、彼女は自分の涙を飲む。
 私ほんとうは結びつきから解放されたいのかもね。泣きながら彼女は彼に話しかける。自分のまわりの人や、仕事や、恋愛や、年齢や、性別や、とにかく自分を定義づける関係のすべてを捨て去りたいと思う。自分の重い身体を脱ぎ捨てて、感情を放り出してしまいたいんだと思う。
 でもそれはできないことなんだよね、と彼女は言う。彼は黙ってそれを聞いている。
 だってそんなのとてもさみしいから。たぶん、何もなくなったら、自分を作る何もかもを捨て去ったら、きっと楽だしさみしさなんて感じないと思うけど。感情だって捨てちゃうんだし。でも、なんとなくそれを想像すると私は悲しい気持ちになる。
 彼女はいったい何滴の涙を飲んだのかわからない。ただそれは飲むそばからまた落下してコーヒーの中に溶けていく。彼女は自分を循環させている。
 あなたも枯らしてはいけなかったのかもしれないね。彼女は突然そんな気持ちになって彼に謝る。ごめんなさい、あなたもきっともっと上に伸びていきたかったのかもね。重力の強さがどんなに苦しくても。
 私はまだ生きているから、重力に耐えられなくて、呼吸がうまくできなくて、身体を折り曲げたり落ちることについて考えたりもするけど、あなたは違ったのかもしれない。上に伸びたくて生きていたのかもしれないのに。
 彼女の目の縁に、また新しく涙が盛り上がる。何もかも捨て去りたかった、一人になりたかった。彼女は。宇宙に浮かんでいる星みたいに、たった一人で、重さのない世界を漂いたかった。海の水も、月の満ち欠けで引っ張られるという。彼女の目には海が湛えられている。それは世界一小さな海。名前のない海。
 彼女はその涙を彼の植木鉢に落としてみる。いまさらそんなことをしたってなんにもならなかった。枯れてしまった彼がよみがえることなんてないし、彼女はそれをよく知っていた。死んだあなたのほうが愛せるなんて思ってごめんね、私生きているあなたを大切にすべきだったのかもしれない。
 彼女の海はとどまることをしらずに重力に従ってこぼれ落ちつづける。彼女はそれを全部彼の土に染みこませたいと思う。
 やがてそれにも飽きて、彼女は部屋を出てトイレに向かう。便座に座って彼女は考える。これでまた私の水は重力に従って落下、逆らえない。逆らったらそれは大事故になるのでこれはこれでよかったと彼女は思う。
 自分の股間を拭って彼女は自分に生理がきたことに気づく。身体の中から血液がこぼれ落ちる。彼女はなるほど、と思って経血のついたトイレットペーパーをまじまじと眺めてしまう。なるほど。
 彼女はトイレから出て、部屋に戻り、また身体を三つ折りにする。呼吸ができていることを知る。そのまま目を閉じる。涙が目尻からこめかみを伝って下へ流れ落ちる。なるほど、と彼女は思う。
 そういうことだったの、と彼女は彼に伝える。もちろん彼は何の返事もしない。
 そういうことだった。変えることなんてできない、と彼女は目を閉じたまま言う。これ以上重さを感じないように、ぴったりと自分の胸と太ももをくっつける。自分の肺が酸素を取り入れていることを感じるために。