sketch 40

「死をしめだすのは一回きりの行為ではあり得ない。ぼくたちの意識はつねに死に侵されようとしているので、ぼくたちはそれをしめだしつづけなければならない。たえざるたたかいが必要なのだ。

たたかいにつかれたぼくらが矛盾のない平和な眠りとしての死の魅惑をはげしく感じる時、生命が死の本能(フロイト)を持っているというのが真実のように思われてくる。

無機物が生命を獲得した時に大きな緊張が生じ、生命体はたえずその緊張からのがれて無機物にかえろうとする傾向をもつ。これが、粗雑な説明だが、死の本能の源であると言われている。この仮説を認めるならば、人間もまた死の魅惑からのがれられないのだろうか?」 

「しかし、死の魅惑が生物学的な本能だとしても、死が具体的にぼくたちに力を及ぼすのは矛盾に満ちた社会的現実の中でであり、死の魅惑はそこからの出口としての魅惑である。

つまり、死のもつ意味は決して〈生物学的〉ではあり得ない。死の魅惑の力は歴史的現実にからみあわせて測られる。しばしば甘美なのは死の観念であり、現実の死は多くみじめだ。

そのうえ、ぼくたちの社会は決して正当化され得ない数知れぬ死を含んでいる。そしてみずから意識しているかどうかは別として、そのような死のうえにあぐらをかいて温和な微笑をうかべている人間もいる。

ぼくらはナメられているわけにはいかない。たたかいをはじめなければならない。」

渡辺武信「風の中から 書くことの位置づけの試み」)

死の観念というのは本当に美しく、魅惑的で、それはオフィーリアの絵が美しいのと同じ理由だ。
死は夢とロマンにあふれている。

なぜ死がそこまで美しく思えるかと言えば、それは「想像の彼岸」に行くことだから。
私たちが憧れ求めやまないものはいつでも彼岸にあり、それは手の届かないところにあるからとても美しい。
死も愛も、友情も永遠も、奇跡も楽園も、すべて私たちの手の届かないところで美しく輝いている。
私たちは星をつかむことはできない。そしてあの星に降り立つこともできない。

彼岸の誘惑というのはとても強く、はげしく、私は一生目を覚ますことなく眠り続けたい。

理由のない激しい怒りの感情にとても疲弊している。何にこんなにイライラしているのかわからないけれど本当はわかっている。
血のつながった人間を無条件に愛せるかと言えばそうじゃないことだって往々にある。距離をとってはじめて愛しあえる人間だっている。
私の考える「愛」と他人の考える「愛」は時折すれ違いを見せる。私の求めるものと相手の与えるものが違うことだってある。
何をこんなにイライラしているのかよくわからない、わかっている、わからない。言葉にして決定的に壊してしまう前に離れなければいけないと強く思う。

私の人生は闘争続きだ、「私」と闘っている、社会的な私、正しい私と闘っている。
私はいつも社会的な言葉を代弁している「私」がいるので、社会的に正しくないことを許さない、まあつまり社会と闘っているということになるのか。
だれも私を責めていないし、誰も私を殺しはしないけれど、私はいつも私を責める社会とか私を殺す誰かと闘っているような気がする。だれもそんなことしないのに。
私が死を夢見るときは、遠い遠い憧れとともにこの世界からの逃避を夢見ているのだ。
二度と戻ってこられない彼岸への旅を夢見ている。

両親に愛されていることを知っているけど、私のなかを通り抜けていくだけなんだなあ。褒められても怒られても、私のなかを通り抜けていくだけなんだなあ。おいしいものを食べても、友達とカラオケに行っても、楽しくおしゃべりしても、私のなかを通り抜けていくだけなんだなあ。私のなかには決定的になにかが足りないような気がとってもした。私は一枚の透明な板でしかない。

とても苦しい、でもこの苦しみがなにかを生み出すと信じていないと、私が信じていないとどうしようもなくなってしまう。
無意味に生を享受することになってしまう。意味の病にかかっているから、なにもないということには耐えられそうもない。戦いの日々を続けています。