innocent

「innocent」…無罪、無垢、純真、汚れのない

イノセントさを人はだんだん忘れていくらしい。それが大人になるってことらしい。そう聞くとなんかそれを失うことがダメだというように聞こえるけど、イノセントな魂が人生のいったい何の役に立つ?
自分の死生観や世界観を培っていく過程で、人はいろんなことを忘れ、自分が子どもだった時のことを、気持ちを、だんだん忘れて世の中に適応し、苦しいなとおもいながらもなんとか世界の一部として頑張って生きていく、そういうことしたかったよ。
自分のことばかり考えている。

純粋さ、無垢さ、そういったものは世界にとても傷つけられる。世界のすべてを自分が変えられるわけではないと気づいたとき、世界は自分にやさしくないのだと気づいたとき、私(たち)はなぜか非常に孤独を感じる。純粋さとは、高潔さとは、無垢さとは? 汚されないことはつまり適応できないということだ。
そしてそういう気持ちって大変な閉塞感につながる。それは翻れば自分は悪くないという気持ちに繋がりやすい。
この世界は私が選んだのではないし、この≪存在≫もまた私が選んだのではない。そこで受ける苦しいとか悲しいとか大変とかしんどいとか、自分を脅かす傷は自分が選んだものではない、から。
そしてその閉塞感を打ち破るほどの何かを自分は持っていないから。
そういう苦しみから解放されるためには、自らもその世界の一部だと受け入れるか、その世界から永遠におさらばするしかないんだろう。
もしかしたらすごく極端なこと言っているのかもしれない。

なんか一種のそういう閉塞感から抜け出すことができないという気持ちを抱えている人は多い気がする。

もうちょっと誰かと深くかかわりあえたら少しは楽になるんだと思うけど、誰かと深くフィットしてかかわりあうっていうのが私はあんまり得意じゃない。なぜならそういうことに傷つけられるから、自分の思ったことを言うと人は傷つくし、わからないというから。
世界に理解を求めるくせに、私は世界を理解する気がないというのはとても卑怯なことのような気がする。

抵抗することって私の人格の大部分を占めていて、それはなにか特定のものというより≪世界≫そのものへの抵抗。
私は≪世界≫を受け入れてたまるかという抵抗。思春期のような。
いくら≪世界≫が理不尽に私を傷つけても、私はそれに屈しないという、あきらめの悪さ。どうあっても私は≪世界≫を変えてみせるという気持ち。
でもまったくの他人と深くわかりあえた瞬間に私は≪世界≫のことを忘れるし、許したり、愛せたりもする。
ただそのわかりあえる他人ってあんまりそうそう出会えるものではないし、結構あっさり別れてしまったりその後何年も連絡をとらなかったりする。そのとき、私はその人のことを本当に必要とし、その人も私を本当に必要とする。何事にも代えがたい素晴らしい経験を私は何度もしているが、それってあっさり失われたり途切れたりする。
そして私はその事実にとても傷ついたり、平気で忘れたりする。
でも傷跡はちゃんと残っているから私はときどきちゃんと思い出して繰り返し傷ついてどんどん閉じていく感じがするなあ。

生まれたとき、子どもの頃、無垢な純真な汚れない魂があったとする。
でも無垢であることはもうれっきとして一つの傷だ。
魂には最初から傷がついている。

もうちょっと≪世界≫と仲良くなりて~~と思う。でもそういうものって他人を通じてしかもらえない。言葉や振る舞いによってしか繋がれない。もうちょっとなにか、理解できる「形」として残してくれりゃいいのにそううまくはいかない。
なので社会性は失いたくないな、働こう、無垢な魂がご飯用意してくれるわけじゃないし、家賃も水光熱費も払ってくれるわけじゃないのよ。
≪存在≫に意味が与えられるなんてことはないと知っているのに私はそこにあらん限りの抵抗をしている。本当の愛、本当の信頼、本当のなにか。嘘やごまかしやなんとなくじゃなくて、本当にゆるぎなく真であるなにか。
きっと見つかると信じて生きていきましょう、と私の大学の恩師は昔言った。
でもそれって躍起になって探すと見つからなくて、ふと何の気なしに目をやったときそこに見つかる。一瞬だけ。

一見正反対の、矛盾した事柄はいつも隣にいる。生と死だったり、嘘と本当だったり、愛と憎しみだったり、悲しみと喜びだったり。それこそ無垢なものとそうでないものとか。そういうものが。
割とそういう事実に直面すると混乱するので整理して反対に置いておきたいんだけど、天秤みたいにつり合いが取れる状態に。
そういうものを整理しておけるようになりたいと望む一方、整理できない自分を失いたくないとも思う。
もしかしたらその正反対の一方を通ってからじゃないと、もう一方にはたどり着けないんじゃないかなと思う。

そんな感じで苦しんでいる。